事事関心! 神社探訪:
[ 東京都足立区 ]
東京都足立区                2015/10/23(金)新規
案内

 東京都足立区にある神社の参拝録。

NO.神社住所参拝年月メモ
 01 日ノ出神社 足立区日ノ出町37 2015/10/21 
 02 千住氷川神社 足立区千住4-31-2 2015/10/21 
 03 千住本氷川神社 足立区千住3-22 2015/10/21 
 04 大川町氷川神社 足立区千住大川町12-3 2015/10/21 
 05 元宿神社 足立区千住元町33-4 2015/10/21 
 06 元宿堰稲荷神社 足立区千住桜木1-15-5 2015/10/21 
 07 千住神社 足立区千住宮元町24-1 2015/10/21 
 08 八幡神社 足立区千住宮元町3-8 2015/10/21 
 09 河原町稲荷神社 足立区千住河原町10-13 2015/10/21 
 10 仲町氷川神社 足立区千住仲町48-2 2015/10/21 
 11 干潮金刀比羅宮 足立区千住橋戸町53 2015/10/21 

【履歴】
・2015/10/23(金): 新規作成。

日ノ出神社 足立区日ノ出町37

 JR常盤線「北千住」駅にて下車、東口より北方向へ徒歩約8分。こじんまりとしているので見落とさないように。


鳥居

社殿

 日ノ出神社は、現荒川底の地域にあった稲荷神社を起源とし、弥五郎新田稲荷神社(西ノ宮稲荷神社)へ合祀後、昭和二十八年に分社して勧請された。
 祭神として稲荷大明神なる五穀をつかさどる倉稲魂神を祀る。


千住氷川神社 足立区千住4-31-2


鳥居

社殿

神額「氷川社」

 神社は千住宿も完成に近づいた元禄四年(1691)に創建された。千住元町の人々がこの地へ移転した時、その本社をここに移したもので本来の旧社は今の元宿神社である。 この神社の本地仏は魚籃観音で明治の廃仏の時別当寺であった隣の長円寺に移され、今はその山門のすぐ左にある。
本殿は明治十六年の建築である。
 明治五年に作られた最上層が静御前の舞姿となっている三層の山車は高さ7.5mもある。 あまり高いので町内巡行が出来なくなり現在は足立区郷土博物館に納められている。


高正天満宮

高正天満宮-社殿

 本殿の左には高正天満宮が祀られている。 これは千住4丁目の名主で開拓の指揮を取った高梨家とその断絶後門地を継承した正木家を祀ったもの。 高梨家が始めた群雀堂という寺子屋は千住でも著名なものでそれを正木家が継ぎ運営したといい、江戸時代を通じて教育の功績は大きかったと云う。 それを記念して教育の神様"天満宮"を祭ったようだ。

千住本氷川神社 足立区千住3-22

 JR常磐線「北千住」駅にて下車、西口より「北千住駅西口」信号のある道を国道4号線に向かって直進し、2つ目の信号の処(約120m先)で右折し北上する。 約170mほど先左手に鎮座している。(駅西口より徒歩5分)




 千住の町は1・2丁目の鎮守が千住神社、3-5丁目はそれぞれが別の氷川神社を営み、それぞれの鎮守としていた。 中でもこの3丁目の神社は徳治二年(1307)に牛田の西光院の脇に創建された千葉氏とも縁の深い由緒のある神社である。
 江戸時代に入ると牛田にあった和田の宿は移転せられて千住3丁目となった。 宿内の有志の寄進によって分社が建てられた。これが南足立郡誌にいう荒川神社である。 明治四十三年荒川放水路の建設のため牛田氷川神社はその敷地を失いこの3丁目の分社に合祀された。 ちなみに旧社地は今日の高速6号道路橋のやや上流、堀切橋のやや下流の川の中に当たる。 その後昭和四十五年新社殿の完成によって現在の姿となる。  それまで3丁目の氷川さまとして知られてきましたが法人化するに当たり社名も"千住本氷川神社"と改められた。
 新社殿は唐破風の正面、柱、虹梁、などの部分に施された彫刻なども見事で趣のある建物になっている。
 祭神は氷川大神だが、社紋は祇園守なので素戔鳴の尊を配している。


旧社殿(大黒様)

稲荷社

 旧社殿はその重厚な建築によって文化財的価値の高い建物で、現在はここに大黒さまが祀られている。
 境内にはほかに芭蕉の句碑、千寿七福神の碑、ラジオ体操記念碑などがある。


大川町氷川神社 足立区千住大川町12-3

 千住本氷川神社を出て、更に北上し、最初の交叉点で左折、70mほど行くと日光街道(国道4号線)にぶつかるので、ここを横断し、まっすぐ進む。 約170m先の信号交差点で右折し北上、約300mほどまっすぐ進むと正面にある(裏境内口)。(駅西口より徒歩17分)







 鎌倉時代の永仁年間(1293)の創建のこの神社は荒川の開削以前は今の千住5丁目の旧日光街道北側にあった。 今、その地は堤防になっている。(旧日光街道が名倉医院の手前で大きく西に曲がったすこし先)
 大正時代に、河川敷や堤防に散在していた幾つかの小さな神社をまとめて現在の地へ移転した。 現在地には昭和43年移転竣工した。もともとは文政七年の創建である。現在の本殿は昭和四十三年に竣工したもの。




 社殿の左側に高さは約3mの富士塚がある。富士塚は文政七年の築造。この富士塚は千住でももはや少ない公開されている(登って良い)富士塚である。 もともとは今の元町に当たる川田浅間神社にあった。先に述べた敷地が荒川の河川敷になるためまとめられた神社のひとつである。


元宿神社 足立区千住元町33-4

 大川町千住神社の裏境内口から出て、右手正面の「進入禁止」標識のある一方通行の道へ向かう。途中、左手に千住公園を見ながら更に先へ。左手に「千住桜花苑」があるので先の右脇道に折れる。 丁字路にぶつかったら左折し、進むと100mほど先右手に鎮座している。(駅西口より徒歩23分)
 路地歩きがつまらないなら大川町千住神社から少し北へ歩くと荒川に出るので、元宿神社まで土手道を歩くのも良い。土手は一帯に対して高くなっているので広い視野の景色を楽しめる。




 祖先「鈴木因幡守貞宗」は長享元年(1487)甲州武田氏に仕えていたがその子「蔵人」の時の大永六年(1526)に元宿の地に移り住んだ。 そしてその子「左衛門尉信義」は天正元年(1573)開拓を始め、多くの良田を得た。 翌年それを記念して東南の地に八幡宮を東北に稲荷社を祀った。
 碑文に出てくる八幡宮に当たる。稲荷社は河川敷になってしまったので八幡宮に合祀された。 もともと元宿は千住4丁目分とされていたので4丁目の氷川神社が鎮守とされていた。 そのため明治時代の神社整理の時この神社も廃止され、千住4丁目の氷川神社に統合された。 しかし他の丁目の分は互いに隣接しており4丁目の分だけが離れていること、元々こちらのほうが4丁目の元であるなどがあり、昭和の町名整理に伴って元宿耕地が元町となるとその鎮守として分離し昭和五年「元宿神社」として復活し、今日に至っている。





元宿堰稲荷神社 足立区千住桜木1-15-5



 創建は、宝暦四年(1755)九代徳川家重将軍の時と伝わるが定かではないが、古来より当地に鎮座し郷民の信仰厚く年中の祭祀も継続してきた。 昭和二十年(1945)十一月に至り元宿神社飛地境内社に編入となったが、再度昭和二十三年二月十三日桜木町総鎮守として設立された。
 昭和二十七年七月十日宗教法人承認、同二十九年四月十日に社殿の改築がなされている。
 祭神として宇迦之御魂命、大国主大神を祀る。


千住神社 足立区千住宮元町24-1

 元宿神社を出て、右手へ進むと100mほど先で墨提通(都道461号線)に出るので、左折し南下する。「千住龍田町」交差点で墨提通から別れ、墨提通の一つ左側にある道に折れる。 この道を直進すると400mほど先、右手に鎮座している。(駅西口より徒歩15分)




 創建は平安時代の延長四年(926)開発が一段落した頃入間川(現隅田川)沿いの現在でも稲荷神社がある当時は下流側から北側に大きく川が入り込んで まるで岬のようになっていた土地に京都の伏見稲荷を勧請し造営された。 これが千崎稲荷で当神社の前身である。 その後1051年八幡太郎義家が当社に本陣を置かれた時にはすでに現在地に移っているので恐らく水災をきらってより高台になる現在地へ移ったもののようだ。 このときの本営になった記念碑が最近建立された。 千住神社の石標の右側に写っている石碑がそれで、史跡八幡太郎源義家陣営の地とある。 その後鎌倉時代の1279年には大宮の氷川神社を勧請し新たに稲荷神社の北西がわに社殿を造営した。 これによって古い図を見ると二社の参道が並び手前に稲荷本殿奥に氷川本殿があったようになっている。 そのため二つ森と呼ばれまた宿の西にあった事から西森とも呼ばれた。 明治時代に入ると両社を合併し西森神社となり大正に入ると千住神社と改称し社格も郷社となり足立区内最高の格式とされた。 その他に神楽殿・神輿蔵・いくつもの末社・そして富士山もある。
 千住七福神のひとつとして恵比寿様を祭っており、本殿右側に願掛け恵比寿の堂が新設されている。








八幡神社 足立区千住宮元町3-8

 JR常磐線「北千住」駅にて下車、西口より「北千住駅西口」信号のある道を日光街道(国道4号線)に向かって直進する。 日光街道(国道4号線)に出たら「北千住駅入り口」交差点で左折、南千住の方へ進む。 600mほど先右手に鎮座している。




 千住宮元町のこの神社は国道4号線に面したやや小さな神社である。 八幡太郎源義家が永承五年(1050)に千住に滞陣したとき本陣を二つ森(現千住神社)において、この地に源氏の白幡をたてたと云われている。 その時神前に奉納された扇を祀ったのが当社のはじめとされている。
 鳥居は明治四十一年のもの、石標は昭和八年のもの。当神社は宮元町にあるが鎮守ではない。 鎮守は千住神社である。扁額には「白幡八幡宮」とありその起源がわかる。

河原町稲荷神社 足立区千住河原町10-13

 JR常磐線「北千住」駅にて下車、西口より「北千住駅西口」信号のある道を日光街道(国道4号線)に向かって直進する。 日光街道(国道4号線)に出たら「北千住駅入り口」交差点で左折、南千住の方へ進む。 800mほど先「千住宮元町」交差点の左手先に鎮座している。




 国道4号線に沿ったこの神社は「やっちゃばの鎮守」として知られ境内には千住市場創立330年碑が建っている。 明治39年5月22日創業330年祝賀祭を記念して高さ4mの碑が建てられた。 さてこの神社自身の創建は記録が失われた為不明とされますがやっちゃ場が創業した頃に祀られたと思われる。




 戦前にあった建物では安永五年(1776)の本殿が最も古かったそうだ。 ほかに拝殿は文化一年(1804)のものだったという。 これらは全て戦災で失われ昭和四十一年に現本殿が再建された。 現在一番古いものは文政13年(1830)製の大鳥居である。


氷川神社 足立区千住仲町48-2

 河原町稲荷神社を出て交差点まで戻り、右折して墨提通(都道461号線)を東へ進む。 高架線路が見えたらその手前の公園に入ると右手先に神社が見える。(駅西口より徒歩15分)




 千住仲町は石出掃部亮が千住の南に広がる河川敷の湿地帯を開墾して町にしたときに始まる。 江戸時代初めの事。その石出家の鎮守として勧進されたのがこの神社である。 元和二年(1616)創建された。 それ以来掃部宿(千住仲町河原町橋戸町のこと)の鎮守として千住の中でも重要な神社になった。 明治時代に社格が定められると村社とされた。
 祭神は素盞鳴尊である。なお、社名と由緒から分るように氷川大神も祀られている。


三峯神社・稲荷神社

弁財天

 幾つかの末社が境内に祀られていますが重要なものが幾つかある。 まず関屋天満宮がある。その由緒は、頼朝が関を置いた時その関守大江道知が勧請したのが興りと云う。 戦国時代が終わる頃関所が廃絶すると現在の千住関屋町内に天満宮だけが残っていたと云われている。 その天満宮を掃部宿建設の後にこの神社に引き取ったのがこの社である。 天明七年八月(1787)にここに遷座された。
 次ぎの末社は弁天宮である。 これは千住七福神の一つに数えられており池の真ん中に弁才天を祀っている。 ご神体は弁天像供養庚申塔だ。庚申塔の象徴である三猿の像の上に弁才天が彫られており、これが庚申塔であることを顕わしている。 元禄二年(1689)の造営で本社よりは新しいがかなり古いものである。

干潮金刀比羅宮 足立区千住橋戸町53

 JR常磐線「北千住」駅にて下車、西口より「北千住駅西口」信号のある道を日光街道(国道4号線)に向かって直進する。 日光街道(国道4号線)に出たら「北千住駅入り口」交差点で左折、南千住の方へ進む。 1100mほど先「足立市場前」交差点の左手にある足立市場の場内に鎮座している。




 四百七十余年の昔、延徳年間(1489〜91)より浮島金毘羅宮として崇敬せられ、明治二十年(1887)官許を得て石神井の水天宮を遷座して、これを社名とする。 昭和二十年(1945)足立市場の開設以来、市場の守護神と尊崇された。
 昭和四十一年(1966)六月に干潮稲荷神社を合祀し、"干潮金刀比羅宮"と改称した。


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