事事関心! 神社探訪:
[ 東京都中央区 ]
神社探訪: 東京都中央区           2020/03/18(水)更新
案内

 第一回は銀座八丁神社巡り、第二回は日本橋七福神巡りであちこちの神社を訪ねた。 そして、第三回(2013/11/13)は二時間ほどの予定で、東京都中央区を東京駅を起点に海沿いに築地まで途中点在する神社を探索し参拝した。
 だいぶ間が空いた2018/01/08は室町にある福徳神社を訪ね、そしてさらに2020/03/18には月島にある佃住吉神社を訪ねた。2021/07/05(月)は大手町での新型ワクチン接種の後兜神社を参拝した。

NO.神社住所参拝年月メモ
 01 摂社山王日枝神社 日本橋茅場町1-6-16 2013/11/13 狛犬あり
 02 明徳稲荷神社 日本橋茅場町1-6-16 2013/11/13 
 03 兜神社 日本橋兜町1-12 2021/07/05 
 04 大原稲荷神社 日本橋兜町11-3 2021/07/05 
 05 新川大神宮 新川1-8-7 2013/11/13 
 06 金刀比羅神社 新川2-15-14 2013/11/13 
 07 於岩稲荷田宮神社 新川2-25-11 2013/11/13 
 08 徳船稲荷神社 新川2 2013/11/13 
 09 鉄砲洲稲荷神社 湊1-6-7 2013/11/13 狛犬あり
 10 新富稲荷神社 新富2-9-4 2013/11/13 
 11 安平神社 銀座1-22-8 2013/11/13 狛犬あり
 12 波除神社 築地6-20-37 2013/11/13 
 13 魚河岸水神社遥拝所 築地6-27築地魚市場内 2013/11/13 狛犬あり
 14 幸稲荷神社 銀座1-5 2012/02/17 [銀座八丁神社巡り]
 15 朝日稲荷神社 銀座3-8-10 2012/01/13 [銀座八丁神社巡り]
 16 龍光不動尊 銀座3-6(松屋銀座屋上) 2012/01/13 [銀座八丁神社巡り]
 17 三囲神社 銀座4-6-16(銀座三越屋上) 2012/01/13 [銀座八丁神社巡り]
 18 宝童稲荷 銀座4-3 2012/03/16 [銀座八丁神社巡り]
 19 あづま稲荷神社 銀座5-9 2012/01/13 [銀座八丁神社巡り]
 20 護稲荷神社 銀座6-10-1(銀座松坂屋屋上) 2012/01/13 [銀座八丁神社巡り]
 21 豊岩稲荷神社 銀座7-8-14 2012/01/13 [銀座八丁神社巡り]
 22 八官神社 銀座8-4-5 2012/03/16 [銀座八丁神社巡り]
 23 小網神社 日本橋小網町16-23 2013/05/08 [日本橋七福神巡り]
 24 茶ノ木神社 日本橋人形町1-12-10 2013/05/08 [日本橋七福神巡り]
 25 松島神社 日本橋人形町2-15-2 2013/05/08 [日本橋七福神巡り]
 26 末廣神社 日本橋人形町2-25-20 2013/05/08 [日本橋七福神巡り]
 27 笠間稲荷神社 日本橋浜町2-11-6 2013/05/08 [日本橋七福神巡り]
 28 椙森神社 日本橋堀留町1-10-2 2013/05/08 [日本橋七福神巡り]
 29 寳田恵比寿神社 日本橋本町3-10 2013/05/08 [日本橋七福神巡り]
 30 福徳神社 日本橋室町2-4-14 2018/01/08 東京メトロ銀座線「三越前」駅すぐ
 31 佃住吉神社 佃1-1-14 2020/03/18 有楽町線・大江戸線「月島」駅徒歩5分
 32 森稲荷神社 佃1-4-4 2020/03/18 有楽町線・大江戸線「月島」駅徒歩5分
 33 於咲稲荷神社 佃1-8-4 2020/03/18 有楽町線・大江戸線「月島」駅徒歩5分
 34 水天宮 日本橋蛎殻町2-4-1 2022/01/12 半蔵門線「水天宮前」駅徒歩1分

【履歴】
・2022/01/14(金): 01/12(水)水天宮参拝。
・2021/07/05(月): 07/05(月)兜神社・大原稲荷神社参拝。
・2020/03/18(水): 03/18(水)佃住吉神社参拝。
・2018/01/08(月): 01/08(月)福徳神社参拝。
・2013/11/17(日): 11/13(水)探索。

摂社山王日枝神社 日本橋茅場町1-6-16

 東西線「茅場町」駅下車、9番出入口に出ると正面にある日幸茅場町ビルの裏手に鎮座している。東京駅側から裏側へ向かうとよい。
 境内に入ると、少し奥まった正面に鳥居が建ち、その手前左手に手水舎がある。参道正面は社務所で社殿はその右手にある。


鳥居(明神鳥居)

社殿

 千代田区永田町の旧官幣大社「日枝神社」の境外摂社・御旅所である。 天正年間(1573〜92)から日枝神社の祭礼に八丁堀北嶋祓所の御旅所まで神輿が船で神幸したことが起源で、寛永年間に御旅所に定められた。
 明治十年(1877)に"日枝神社"と改称し、無格社となった。その後、大正四年(1945)本社の日枝神社が官幣大社に昇格したのに伴い、本社の境外摂社とされた。 関東大震災の後、昭和三年(1928)に社殿が造営された際、境内末社の北野神社・稲荷神社・浅間神社の祭神を本殿に合祀した。

明徳稲荷神社 日本橋茅場町1-6-16

 東京メトロ東西線「茅場町」駅下車、9番出入口に出ると正面にある日幸茅場町ビルの裏手に鎮座している。摂社山王日枝神社と同じ境内にある。




 元禄の頃より南茅場町(現茅場町一丁目)の稲荷社として現六番地附近に鎮座していた。 明治十八年の火災で焼損したため社殿・神楽殿を再築した。 大正十二年の関東大震災後祠を建てていたが、区画整理に伴い十四番地の換地に移り社祠を再建した。 しかしながら、昭和二十年三月の東京大空襲で焼失。昭和二十四年に社殿を復興した。 その後、東京証券会館建設に当り神社遷座の懇請を受け、現在地に昭和三十八年六月再建を完了し現在に至る。 尚、翁稲荷神社、祇園稲荷神社を合祀している。


兜神社 日本橋兜町1-12

 東西線・日比谷線「茅場町」駅11番出口から永代通りを日本橋川へ少し進み首都高速都心環状線の高架の手前で右折し北上すると突き当り東京証券取引所向かい側に隣接した日本橋川を背に鎮座している。


社正面


神額「兜神社」

 明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり、同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。
 境内に"兜岩"と呼ばれる岩がある。この岩には幾つかの由来があるが、いずれも確たる裏付けがあるわけではないようだ。

兜岩の由来

兜岩

■後三年の役(西暦1080年代)にて、源義家が奥州から凱旋してきたとき、東夷鎮定の祈願を兼ねて記念のため、兜を楓川の辺の土中に埋めて塚を作ったと云う。これを当時の人達は"兜塚"と呼んだが、いつしか兜岩となった。
■前九年の役(西暦1050年代)にて、源義家が奥州征伐に向かう際、岩に兜をかけて戦勝を祈願したことから、この岩を"兜岩"と呼びようになったとのこと。
■承平の乱(西暦935〜940年)にて、藤原秀郷が平将門の首を打って京都へ運ぶ際、その平将門の打首に兜を沿えていたが、この地で罪滅ぼしにと兜だけ土中に埋め塚を作って供養したと云う。この塚を当時は兜山と呼んだそうだが、そこに兜神社が建ち、いつしか兜岩だけが残った。

大原稲荷神社 日本橋兜町11-3

 東西線・日比谷線「茅場町」駅12番出口から徒歩1分。警視庁中央警察署のすぐ目の前、ビルとビルの間にある。




 創建の年代や詳しい経緯は不明。江戸時代末期、文久の時代には、絵図にその記載があるので江戸末期以前の創建と思われる。 当時はこの神社の後ろに「楓川」が流れており、この辺りは日本橋川から楓川に通じる要所であり、海運・芸能の神として信仰されていた。楓川は現在掘り下げられ、首都高速の一部が通っている。
 また、金融の街である兜町に鎮座しているため、銀行や証券会社など、金融関係からも信仰が厚い。
 祭神は、五穀豊穣の神様である倉稲魂命。

新川大神宮 新川1-8-7

 東京メトロ東西線「茅場町」駅下車、永代通りを南下し、ホテルビィラフォンテーヌ茅場町手前の道へ右折。 約40m先の最初の路地に左折すると、80m程先左手に鎮座している。


鳥居(靖国鳥居)

社殿

手水舎

 江戸時代の昔、江戸城内紅葉山に伊勢神宮の御分霊を奉斎し社殿を創立した。万治元年(1658)にこの地に勧請。 隅田川に通ずる水路(新川)を開き「新川大神宮」と称したが、明治初年「天祖神社」と改称、昭和三十年三月再び「新川大神宮」に改称した。

金刀比羅神社 新川2-15-14

 東京メトロ日比谷線「八丁堀」駅下車、東へ向かい南高橋を渡り新川に入り、「新川2丁目」交差点先2つ目の右手路地に折れる。50mほど進むと左手に鎮座している(徒歩約6分)。


鳥居(靖国鳥居)

社殿

 天保年間(1830-44)に香川県の本宮より武蔵国山岡吉右衛門邸に勧請され、明治八年(1875)十月に松平越前守下屋敷跡である当地へ遷座。
 東京大空襲により社殿を焼失したが、昭和二十三年(1948)に社殿を再建、その後昭和四十一年(1966)に鳥居と玉垣が新設されたとのこと。


於岩稲荷田宮神社 新川2-25-11

 東京メトロ日比谷線「八丁堀」駅下車、東へ向かい南高橋を渡り新川に入り、「新川2丁目」交差点先一つ目の右手路地に折れる。50mほど進むと左手に鎮座している(徒歩約6分)。


境内入口

田宮神社鳥居

於岩稲荷(正面は百度石)

 鶴屋南北の傑作『東海道四谷怪談』の主人公「お岩さん」ゆかりの神社として知られている。 四谷にも於岩稲荷田宮神社があるが、こちらが本社で、四谷の社は飛地境内社だ。
 幕府の御家人田宮又左衛門の娘であった"お岩"の厚い信仰により田宮家が復活したという話が評判となり、近隣の人々は田宮家の屋敷神を「於岩稲荷」と呼んで信仰した。 その後、享保二年(1717)に田宮家が屋敷神の隣に稲荷祠を建立すると、更に参拝を求める人が増えたため、屋敷を開放して参拝を許可することになり、以来、於岩明神・大巌明神・四谷稲荷・左門町稲荷などと呼ばれて、信仰を集めた。
 明治の初め、於岩稲荷田宮神社と改称した。明治十二年(1879)、四谷左門町の火事で社殿が焼失したのをきっかけに、越前堀(現在の新川)の田宮家の敷地内(現社地)に遷座した。 以来、歌舞伎関係者や花柳界を中心に広く信仰を集めたが、昭和二十年(1945)の東京大空襲で社殿等は灰燼に帰した。 現在の社殿は戦後の再建である。
 なお、昭和二十七年(1952)四谷の旧社地に飛地境内社として於岩稲荷田宮神社が再興されている。

徳船稲荷神社 新川2

 京葉線「八丁堀」駅で下車。東へ向かい亀島川に架かる高橋を渡ったら右折し、川下へ向かうと次に亀島川に架かる南高橋の橋詰に鎮座している。




 この地新川には、徳川期には越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた。その中に小さな稲荷が祀られていたという。 御神体は徳川家の遊船の舳(とも、へさき)を切って彫られたものと伝えられている。
 明暦三年の世にいう「振袖火事」はこの地にも及んだが、御神体はあわや類焼の寸前で難を免れ、大正十一年(1922)に至るまで土地の恵比寿稲荷に安置された。 関東大震災の際、再度救出され、昭和六年(1931)隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し、町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。 昭和二十九年(1954)同所に再現のあと、平成三年(1991)中央大橋架橋工事のため、この地に遷座して現在に至っている。

鉄砲洲稲荷神社 湊1-6-7

 東京メトロ有楽町線「新富町」駅で下車。5番出入口に出て都道473号線を東側の海の方へ向かう。「佃大橋」交差点に至ったら左折し北上する。 500m程行った「鉄砲洲児童公園」の先左手道路沿いに鎮座している。




 平安時代、仁明帝の御代に創祀されたと伝わっている。 江戸湾の最も奥に鎮座していたところから、船乗りたちの崇敬が篤かった。 室町末期に始まった江戸湾の埋め立ての進行に従い、新しい海岸線の近い京橋辺りに遷座した。 大永年間(1521〜28)に再び遷座して八町堀稲荷と称するようになり、さらに寛永元年(1624)鉄砲州の現社地へ遷り、もともと鎮座していた八幡神社を摂社とした。
 江戸時代には「関東総司稲荷橋神社」と称し、寺社奉行の直支配古跡十一社の触頭として、年頭御礼の節には登城したという。 また、鉄砲洲は江戸の海の玄関口に位置するところから、海上守護の神として信仰を集めたと云う。

新富稲荷神社 新富2-9-4

 東京メトロ有楽町線「新富町」駅で下車。5番出入口に出て京橋税務署の方へ2つ目の路地に入ると20mほど先にある。




 当初は赤丸稲荷として伝えられる。明治維新後、この一帯が築地新島原遊郭が作られ同郭にあった中万字楼前にあり、中万字稲荷と称されたが、遊郭廃止後社状態になっていたという。明治八年新富町に守田座を移転するに際して17代守田勘弥が再建した。 その後、明治十六年11月に焼失、団十郎左団次の主唱で再築された。


安平神社 銀座1-22-8

 東京メトロ有楽町線「新富町」駅で下車。2番出入口に出て首都高速道路上の橋を超えて2つ目の路地に入ったところに鎮座している。




 江戸時代には新庄美濃守の屋敷神として祀られていた。 明治に入り、この地に料亭「万安楼」を建設するに当たって、残されていた当社を亭主鈴木専吉が入手し、安平神社と名づけて料亭内の庭園に祀った。 その万安楼は1990年代末に廃業し、2003年同地に銀座タワーが竣工、社は残され一般公開される形で現在に至っている。


波除神社 築地6-20-37

 都営地下鉄大江戸線「築地市場」駅で下車、A1口に出ると新大橋通りで、目の前に築地市場がある。本願寺のほうへ少し歩き、市場と場外市場との境にある右手脇道に入ると、正面突き当りに鎮座している。


鳥居()

神額「波除神社」

 明暦の大火後、徳川家綱が築地海岸の埋め立てを手掛けたが、堤防を築いても波によって破壊され、工事は困難を極めた。 ある夜、海面に光を放ちながら漂うものがあり、船を出して引き揚げてみると稲荷大神のご神体だった。さっそく社殿を造って祀ったところ、波風がおさまり埋め立ては無事に完了した。 その神徳を称えて「波除稲荷」と称し、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全などの信仰を集めている。
 現在の社殿は昭和十二年に建てられたもので、御祭神の繋がりが有る伊勢の神宮(外宮)と同じ唯一神明造で国産の檜を使って造られており、戦前では東日本で最後に造営された社殿とのこと。


お歯黒獅子

獅子殿: 厄除天井大獅子

 「お歯黒獅子」は江戸時代に東都名物だった雌の大獅子を祭礼で担ぐ様に高さ一尺の台座を含め高さ2.2m,両耳幅2.5m,総重量700kgある。総漆塗り一木造で、紅色の肌地にお歯黒を施し金箔押しの巻き毛で腰高の姿に平成十四年再興された。この雌を表す頭の宝珠の中には弁財天・市杵島姫命の御神像が収められているそうだ。
 「厄除天井大獅子」は江戸末期に焼失。平成二年に神社の御鎮座330年を記念し、樹齢約三千年の黒檜(ねず)の原木を用いて、高さ2.4m,幅3.3m,重さ1tと往時に勝るとも劣らぬ名実共に日本一の厄除天井大獅子として再興された。
 これらの獅子はともに加賀鶴木の現代の名工・知田清雲氏とその工房の手によるものである。

魚河岸水神社遥拝所 築地6-27 築地魚市場内

 都営地下鉄大江戸線「築地市場」駅で下車、A1出口に出ると新大橋通りで、目の前に築地市場がある。 本願寺のほうへ少し歩き、市場橋門から中に入り100mほど行くと左手に鎮座している。




 魚河岸水神社は、天正十八年(1590)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」がはじまり。 明治三十四年に神田神社の境内に「水神社」本殿を建立し、遥拝所が市場内に建立された。


小網神社 日本橋小網町16-23

 東京メトロ半蔵門線「人形町」駅A2出口より背方向の「日本橋小学校」方面へ進む。 「玉ひで」前を通り、1つ目の信号を渡った先の“横断歩道”の表示(道路左側にローソン、右側に『神社案内板』)がある処を右折し、すぐに左折すると社殿が見える。 歩いて約5分の距離にある。


小網神社

銭洗いの水

 小網神社は恵心僧都の開基と伝えられる万福寺を起源にしている。万福寺はもと"万福庵"と称し豊島郡入江にあり、観世音菩薩と弁財天を祀っていたと云う。 文正元年(1466)当地に悪疫が流行っていたさなかに、網師の翁が庵を訪れ数日間滞在した。 ある夜、庵主は「この翁を稲荷大神として勧請すべし」という恵心僧都の夢告を受け、その翁を小網稲荷大明神として祀ったところ、流行の悪疫が治まったという。
 その後、領主の太田道潅が神徳の著しいことを聞きおよび万福庵を訪れて当社を参拝、土地を寄進して小網山稲荷院万福寺と名付けたとされている。 慶長年間(1596〜1615)以降、付近の町名も当社に因み"小網町"と称するようになった。
 明治初年の神仏分離で万福寺は廃絶。寺にあった弁財天が当社に移され、「東京銭洗い弁財天」、「万福舟乗弁財天」として信仰を集めている。
 十一月末に繰り広げられる"どぶろく祭り"は奇祭としてとみに有名だそうだ。
 福禄寿は福徳長寿の神、そして弁財天は営業隆昌、学芸成就の神として親しまれている。
 現社殿・神楽殿は関東大震災後、昭和4年に竣工。 明治神宮竣工にも尽力した宮大工・内藤駒三郎氏が指揮して建てられた。 日本橋地区では唯一現存する戦前の神社建築で、中央区有形文化財に指定されている。 総檜造りで重厚な彫刻が施され、とくに昇り龍・降り龍は強運厄除の御利益のシンボルとして崇められている。 また、神楽殿は五角形をしており、大変珍しい造りとなっている。

茶ノ木神社 日本橋人形町1-12-10

 東京メトロ半蔵門線「水天宮前」駅の8番出口より出て、目の前のビルの裏手に回るとある。




 創建については不詳だが、この地にあった下総佐倉藩主・堀田家中屋敷の邸内社として祀られていた。長年、堀田家の屋敷をはじめ、近辺に火事が起こらなかったことから火伏せの神として信仰を集め、初午祭の当日のみ、一般の参拝を許していたという。 当時、社の周囲に茶の木を植え込んでいたことから、「お茶の木様」と称された。
 祭神は倉稲魂大神である。
 昭和六十年(1985)布袋尊を合祀、日本橋七福神に参加した。現在の社殿は平成二十年(2008)に新築された。
 布袋尊は福徳円満の神として広く信じられている。

松島神社 日本橋人形町2-15-2

 東京メトロ半蔵門線「水天宮前」駅の7番出口より出て、水天宮前交差点のほうに歩き左折。 左手の2つ目の脇道に入ると30mほど先「松島ビル」の横に鎮座している。




 元亨年間(1321)以前の創建だそうで、その頃ここが入り江の島で、そこに松が有った事から松島稲荷と呼ばれるようになり、その後、松島神社となった。 ここが人形町、蛎殻町と町名が定められる前は、この辺一帯は松島町と呼ばれていたが、それもこの松島神社の存在からと云う。
 この神社は大鳥神社で、江戸時代には周囲が歓楽街であったため、人形細工職人、呉服商人、歌舞伎役者、葭町の芸妓どころや庶民の参拝で大いに賑わった。
 松島神社は日本橋七福神の一柱で、大国神が奉られているので、今でも沢山の七福神巡りの人が参拝に訪れるそうだ。 11月の酉の市には熊手市も出るので、店の繁栄を願う商店主の皆様方で大変賑わう。 松島神社のご利益は何としても商売繁盛、大国さまは富と財力を与える福の神だ。

末廣神社 日本橋人形町2-25-20

 「人形町」駅から徒歩数分の場所にある。 松島神社の前の通りをそのまま進み、地下鉄人形町ビルの手前の路地に右折するとビルの隣に末廣神社があった。


末廣神社

江戸町火消し「は組」の碑

 慶長元年(1596)にはすでに稲荷祠が鎮座していた。 末廣の名は、延宝三年(1675)に社殿を修復した際、本殿から中啓(末廣扇)が出たことに因むという。
 末廣神社は倉稲魂命を主祭神としている。 葭原がこの地にあった当時は葭原八ヶ町の、明暦の大火で葭原移転後には難波町、高砂町、住吉町、新泉町、四ヶ町の産土神として信仰されてきた。
 多聞天の異名を持つ毘沙門天は、世界の守護神であり、又、福徳を授ける神ともされている。

笠間稲荷神社 日本橋浜町2-11-6

 末廣神社の次は笠間稲荷神社。ただ、持参の地図では在り場所が分からず、一区画を周回してしまった。 そんな時、地元の半被を羽織った叔父さんと出会い在り処を聞いて判明。 「久松警察署前」交差点を渡り、久松警察署と通りを挟んだところに笠間稲荷神社を見つけた。




 笠間藩主牧野氏の下屋敷に祀られていた邸内社を起源とする。 茨城県笠間市の笠間稲荷神社は日本三大稲荷の一つにも数えられ、白雉二年(651)に鎮座したという。
 歴代笠間藩主の崇敬篤く、藩の祈願所として社地・社殿・祭具等の寄進がたびたびであった。胡桃の林に祀られていたことから「胡桃下稲荷」とも、門三郎という人物が利根川を中心として人々に功徳を施し、信仰を広めたことから「紋三郎稲荷」とも呼ばれ、その信仰は関東一円のみならず全国に広がる。 もともと牧野家の下屋敷には邸内社として稲荷社があったが、延享四年(1747)、笠間に転封になったことから笠間稲荷を崇敬するようになり、安政六年(1859)、御分霊を勧請して合祀した。
 寿老人は長寿の神にして、お導きの神、幸運の神として、人々の運命を開拓して下さる福徳長寿の守護神とされている。

椙森神社 日本橋堀留町1-10-2

 笠間稲荷神社と椙森神社は少し離れているので、道筋には注意が必要だ。「久松警察署前」交差点の方へ戻って反対側へ渡り、左手へ進む。「人形町交差点」を過ぎ、二つ目の路地へと右折する。暫く行くと、右手に椙森神社があった。


椙森神社

「富塚」の碑

 創建は約一千年前と伝えられ、天慶三年(940)には平将門追討を命じられた藤原秀郷が戦勝を祈願したと伝えられる。 この時奉納した白銀の狐像が現存するという。
 文正元年(1466)、太田道潅が当社で雨乞いの祈願をなし、霊験あらたかであったことから、山城国伏見稲荷の五社の神を勧請し、篤く敬った。 江戸時代には新橋の烏森神社、神田須田町の柳森神社とともに江戸三森と称され、大名から庶民まで広く信仰を集めた。寛文年間(1661〜73)には吉川惟足が、御祭神・大己貴大神の託宣により恵比寿大神を奉斎した。 また、富興業も盛んで、三富に数えられたという。 境内にはこれを偲ぶ富塚があり、富札も残っている(いずれも中央区民文化財指定)。
 十月の恵比寿神大祭は毎年盛大に盛り上がるそうだ。

寳田恵比寿神社 日本橋本町3-10

 さあ、最後の寳田恵比寿神社へ向かおう。そのまま北上し、三井住友銀行人形町支店の裏手に至ったら、その先で左折する。暫く行くと右手に寳田恵比寿神社があった。




 徳川家康が江戸に入府する以前、今の東京駅付近にあった宝田村の鎮守。 宝田村は慶長11年(1606)江戸城の拡張に伴って日本橋に移転し、大伝馬町となった(現在の日本橋本町三丁目と日本橋大伝馬町一丁目あたり)。 この時、大伝馬町の名主となった馬込勘解由が邸内に奉斎し、旧村名に因んで「宝田稲荷」と称した。 その後、文政年間(1818〜30)に馬込邸内より現在地に遷座したという。
 祭壇の中央に安置される恵比寿神像は、慶長11年三伝馬取締役・馬込勘解由が徳川家康からこれを受け、運慶作とも左甚五郎作とも伝えられる。
 1月20日には初恵比寿、10月19日・20日には商売繁盛を祈る恵比寿講が開かれている。

福徳神社 日本橋室町2-4-14

 東京メトロ銀座線「三越前」駅9番口に出てYUITOビルの裏側へ回ると、道を隔てて鎮座している。


鳥居

社殿

 貞観年間(清和天皇 859〜876年)には既に鎮座していたようだ。 武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号とした。
 関東大震災後の大正十四年(1925)に区画整理が実施された際、換地に遷座した。 その後、昭和十九年(1944)には太平洋戦争の空襲により社殿が焼失し、戦後は仮殿にて奉斎されていた。 昭和四十七年(1972)になり旧三井銀行日本橋支店の申し入れにより旧鎮座地を交換、遷座した。
 平成二十二年(2010)までは一時期ビルの屋上に鎮座するなどしていたが、日本橋室町東地区開発計画の一環として社地・社殿が改められることとなり、平成二十六年十月に入母屋造り正面向拝及び千鳥破風付の拝殿を持つ社殿が竣工した。さらに平成二十八年(2016)九月、境内東側に隣接する敷地が「福徳の森」としてオープンし、同所には東京薬事協会が奉斎する薬祖神社が遷座している。
 五穀主宰の神・倉稲魂命を祀る。

佃住吉神社 佃1-1-14

 東京メトロ有楽町線・都営地下鉄大江戸線「月島」駅6番口より徒歩5分の処に鎮座している。


一の鳥居

二の鳥居

 天正十八年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫33人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸にくだり、正保2年に佃島を竣工し、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)6月29日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀し創建した。
 境内正面に建つ二の鳥居の扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けている。 明治十五年六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王である。


社殿

扁額「住吉神社」

 
 底筒之男命、中筒之尾命、表筒之男命、すなわち住吉三神を主祭神とし、合わせて息長足姫命、東照御親神を祀る。
 慶応二年十一月神田の火災の際類焼したが、明治三年に社殿が落成した。現存する社殿はこの時の造営にかかるもの。



龍神社

船魂神社

 龍神社の祭神は、豊玉比売命、於迦美大神、龍姫大神。ご神徳及びご利益は、水の守護神・病気平癒・開運出世・商売繁盛・諸芸上達とのこと。
 境内社「船魂神社」は幕末の尊王攘夷運動が吹き荒れる文久三年に鎮座した。 祭神は、船舶に宿る神霊「魂神」と「住吉三神」が祀られている。



御仮屋「龍虎の庭」

龍虎の頭

龍虎の頭

 造られた年代は定かではないがかなり古いものらしく、江戸時代から大正期まで住吉神社大祭の獅子頭宮出しや御練りで用いられていた「龍虎の獅子頭」である。

森稲荷神社 佃1-4-4

 東京メトロ有楽町線「月島」駅で下車、6番出口より佃大橋方向へ進み佃公園を回り込み佃掘西側に進むとある。




 森稲荷神社は、正保元年(1645)に摂津から移り住んだ森一族が、森家邸宅内に稲荷神を奉祀したことを起源とする。
 祭神は倉稲魂命。


於咲稲荷神社 佃1-8-4

 東京メトロ有楽町線「月島」駅で下車、6番出口より佃大橋方向へ進み佃公園手前で右折すると佃掘縁に鎮座している。




 於咲稲荷波除稲荷神社は鳥居を共有して、於咲稲荷神社と波除稲荷神社が鎮座している。両社とも創建時期・由緒は不明。

水天宮 日本橋蛎殻町2-4-1

 東京メトロ半蔵門線「水天宮前」駅で下車、出口5番すぐの処に鎮座している。
札所: 日本橋七福神(弁財天)


参道口

鳥居(境内から)

社殿

 文政元年(1818)、第九代藩主有馬頼徳公が江戸で水天宮に親しくお参り出来るよう芝赤羽根橋の上屋敷内へ国元久留米より御分霊を勧請した。 明治四年に青山、翌五年には日本橋蛎殻町へと移転した。 その後、関東大震災をはじめ数多の苦難を乗り越え現在に至っている。
 天御中主大神、安徳天皇、建礼門院、二位の尼を祀る。


寳生辨財天

境内社

寳生辨財天(市杵島姫神社): 品川の有馬家下屋敷に祀られていた辨財天像を安置する。学芸・芸事の神として信仰されている。
境内社: 火風神社、秋葉神社、高尾神社


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