事事関心! 神社探訪:
[ 東京都江東区 ]
神社探訪: 東京都江東区           2019/03/03(日)更新
案内

 東京都江東区にある神社の参拝録。
 第1回は大江戸線を利用し「両国」駅からスタートし、「門前仲町」駅までの清澄通沿いの神社を巡った。1年ぶりとなった2回目は亀戸駅の北側を探索。此処には有名な亀戸天神がある。
 3回目は亀戸の南側に位置する大島界隈を訪れた。4回目となった今回(2019/03/02)は、江戸川区平井散策の帰りに亀戸浅間神社を参拝した。

NO.神社住所参拝年月メモ
 01 深川神明宮 江東区森下1-3-17 2014/03/26 深川七福神[寿老神]
 02 芭蕉稲荷神社 江東区常盤1-3 2014/03/26 
 03 深川稲荷神社 江東区清澄2-12-12 2014/03/26 深川七福神[布袋尊]
 04 富岡八幡宮 江東区富岡1-20-3 2014/03/26 深川七福神[恵比寿神]
 05 亀戸天神社 江東区亀戸3-6-1 2015/04/17 
 06 天祖神社 江東区亀戸3-38-35 2015/04/17 亀戸七福神「福禄寿」
 07 香取神社 江東区亀戸3-57-22 2015/04/17 亀戸七福神「大国神、恵比寿神」
 08 亀戸石井神社 江東区亀戸4-37-13 2015/04/17 
 09 亀戸水神宮 江東区亀戸4-11-18 2015/04/17 
 10 東大島神社 江東区大島7-24-1 2016/06/10 
 11 大島稲荷神社 江東区大島5-39-26 2016/06/10 
 12 妙法稲荷神社 江東区東砂2-3-2 2016/06/10 
 13 生田神社 江東区東砂3-17-17 2016/06/10 
 14 大塚天祖神社 江東区東砂4-2-18 2016/06/10 
 15 亀高神社 江東区北砂4-25 2016/06/10 
 16 志演尊空神社 江東区北砂2-1-37 2016/06/10 
 17 豊賀岡八幡宮 江東区南砂1-15 2016/06/10 
 18 宇迦八幡宮 江東区千田12-8 2016/06/10 
 19 猿江神社 江東区猿江2-2-17 2016/06/10 
 20 日先神社 江東区猿江1-22-12 2016/06/10 
 21 亀戸浅間神社 江東区亀戸9-15-7 2019/03/02 

【履歴】
・2014/03/26(水): 作成。
・2015/04/19(日): 4/17亀戸を探訪。
・2016/06/12(日): 6/10亀小名木川周辺を探訪。
・2019/03/03(日): 3/2戸浅間神社を参拝。

深川神明宮 江東区森下1-3-17

 都営地下鉄大江戸線「森下」駅下車。A7出口より清澄通りを南下。100mほど先の四つ角で右折し進むと、70mほど先右手にある。(徒歩3分)


鳥居(靖国鳥居)

拝殿

 深川神明宮は、深川において創立の最も古い神社で、慶長元年(1596)に摂津国の深川八郎右衛門ほか6人が開拓した新田にその鎮守の宮として伊勢皇大神宮の御分霊を祀り勧請したと云う。 祭神は天照皇大神。
 徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたが村名が無いので、深川八郎右衛門の姓をとり「深川村」と命名せよといわれた由、以来深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられたりし、深川の地名のもとになった。


手水舎

寿老神社

末社: 和合稲荷神社

【寿老神社】
 深川七福神のひとつ寿老神が祀られている。
【和合稲荷神社】
 古くは神域内の各所に各々に祭っちていた十一柱(和合大神,稲荷大神,浅間大神,厳島大神,疱瘡大神,鹿嶋大神,大国大神,御嶽大神,金比羅大神,道祖大神,北野大神)の神々を昭和に入って末社として合祀し、和合稲荷神社となった。

芭蕉稲荷神社 江東区常盤1-3

 都営地下鉄大江戸線「清澄白河」駅で下車。A1番出口に出て、清澄通りと直行する出口傍の脇道を西方向へ向かう。 300mほど先の四つ角で右折する。小名木川に架かる萬年橋を渡り30mほど先の四つ角を左折するとすぐ右手にある。




 芭蕉稲荷神社は、大正六年の津波来襲の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源太郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷が創建され、大正十年東京府により常盤一丁目が旧跡に指定されたと云う。 当社の近くには、江東区芭蕉記念館分館がある。

深川稲荷神社 江東区清澄2-12-12

 都営地下鉄大江戸線「清澄白河」駅で下車。A1番出口に出て、清澄通りと直行する出口傍の脇道を西方向へ向かう。 約150mほど先の四つ角で左折し南下すると次の四つ角右手にある。




 深川稲荷神社は、寛永七年(1630)の創立で、宇賀魂命を祀る。旧地名「深川西大工町」から西大稲荷と称した。 深川七福神のひとつ布袋尊が祀られている。


富岡八幡宮 江東区富岡1-20-3

 地下鉄大江戸線「門前仲町」駅で下車。5番出口より出て少し南下し、交差点で左折し永代通りを木場方面へ向かう。 三つめの交叉点の先左手にある。


鳥居(台輪鳥居型)

本殿

 富岡八幡宮は、永代寺の長盛法印が寛永四年(1627)当時永代島と呼ばれていた現在地に創建したと云われている。 広く「深川の八幡様」として親しまれている。
 明治維新に際しては准勅祭社に指定され東京十社のひとつである。



二の宮神輿(平成九年製)

粟島神社・七渡神社


 七渡神社は、"七渡弁天"と親しまれる、八幡宮が創祀される以前から祀られる地主神である。粟島神社は、七渡神社に合祀され、裁縫上達の神様として信仰を集めている。



末社: 富士浅間社・金刀比羅社

末社: 大黒社・恵比寿社

末社: 大鳥神社・鹿島神社

末社: 祖霊社.....客神社

 深川七福神のひとつになっている恵比寿神は境内の西側にある恵比須社に奉祀されている。


「大関力士」碑

「超五十連勝力士」碑、「横綱力士」碑


 ここは江戸勧進相撲発祥の地として有名で、貞享元年(1684)幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許され、以降約100年間にわたって本場所が境内にて行われ、現代の大相撲のもととなった。 「横綱力士」碑、「超五十連勝力士」碑など、多くの石碑等があり、昔を偲ばせる。

亀戸天神社 江東区亀戸3-6-1

 JR総武本線「亀戸」駅にて下車。明治通りを北上し、「亀戸四丁目」交差点で蔵前橋通りへ左折。 300mほど直進すると右手にある。


鳥居(明神鳥居型)

本殿

神額「亀戸天神社」

 寛文二年(1662)道眞公の末裔、菅原大鳥居信祐公が九州の太宰府天満宮より勧請、地形をはじめ社殿や楼門、太鼓橋など境内の結構をすべて太宰府の社に倣い造営したのを起源としている。
 祭神は天満大神(菅原道眞公)、天菩日命(菅原家の祖神)相殿に祀る。


御嶽神社

弁天社

琴柱灯籠

 琴柱灯籠は琴の弦を支える琴柱を模したことに由来しており、兼六園のものより一回り大きいそうだ。

天祖神社 江東区亀戸3-38-35

 JR総武本線「亀戸」駅にて下車。明治通りを北上し、「亀戸四丁目」交差点で蔵前橋通りへ左折。 150mほど進み、「亀戸天神通り」交差点で右折し北へ向かう。100mほど進むと道が二股に分かれるので左手へ進む。信号のある交差点に出たら直進し、2つ目の右手の路地に折れる。あとは、道なりに進むと150m程で神社に到着だ。


一の鳥居

二の鳥居

 天祖神社は、応永二年(1395)に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと伝えられている。 古くは柳島総鎮守神明宮と称されていた。柳島村の鎮守、村社を経て、現在に至る。
 境内社の太郎稲荷神社は、筑後立花家下屋敷にあった立花家の守護神を江戸時代に移したもので、樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社である。
 祭神は天照皇大御神。


社殿

神額「天祖神社」

 現社殿は大正十年に企画され、関東大震災を経て昭和四年に日本最初の防災建築にて竣工した。 特徴は内部は総槍造りで、外部鉄筋コソクリート造りである。太平洋戦争での空襲においても社殿のみ焼失を免れ、都内では最古の防災社殿とのことだ。



福禄寿祠


 亀戸七福神の福禄寿となっている。


香取神社 江東区亀戸3-57-22

 JR総武本線「亀戸」駅にて下車。明治通りを北上し、「亀戸四丁目」交差点で蔵前橋通りへ左折。 50mほど進むと右手に大きな鳥居があるのでその鳥居を潜り北へ向かうと150m先にある。


鳥居(靖国鳥居型)

社殿

神額「香取大神宮」

 「香取神社御由緒記」によれば昔亀戸は小さな島からなり、島の形が亀に似ているところから亀島、亀津島とも呼ばれていた。 天智天皇四年(665)藤原鎌足公が東国御下向の際、この亀島に船を寄せられ、香取大神を勧請され、太刀を一振を納め、旅の安泰を祈り、神徳を奉るのが創立の起因であるという。 建武年間(1334〜1338)に香取伊賀守矢作連正基が始めてこの社に奉仕し、香取神社の初代神主となり、応安四年(1371)社殿再建、大永三年(1523)修造を営み、寛永三年(1626)本殿改築、文政年間(1818〜1830)拝殿造営。 戦災で本殿炎上し、昭和二十三年社殿再建、昭和六十三年現社殿建立という。
 祭神は、我国武将の祖神・経津主神(ふつぬしのかみ)である。
 また、亀戸七福神の大国神、恵比寿神を祀っている。

亀戸石井神社 江東区亀戸4-37-13

 JR総武本線「亀戸」駅にて下車。明治通りを北上し、「亀戸四丁目」交差点で蔵前橋通りへ右折。 150m先にある歩道橋を渡り、すぐ先左手にある路地に入り四つ角で右折して進むと30mほど先左手にある。


鳥居

拝殿

神額「亀戸 石井神社」

 嵯峨天皇の御代弘仁弐年(811)九月弘法大師により発現せられたる社で、亀井戸郷中図子の鎮守社である。昭和二十年の戦災で、社殿を焼失し、いまは、昭和40年に再建された小祠となっている。
 級長彦命(シナツヒコノミコト)、凡象女命(ミツハノメノミコト)、津長井命(ツナガイノミコト)を祀る。

亀戸水神宮 江東区亀戸4-11-18

 JR総武本線「亀戸」駅にて下車。明治通りを北上し、「亀戸四丁目」交差点で蔵前橋通りへ右折。 暫く(400mほど)行くと「江東新橋西詰」交差点があるのでここで右折する。すると直ぐ先に六叉路があり、その角の交番の裏手にある。




 室町幕府十二代将軍足利義晴の享禄年間(1528-1532)の開村の頃に創建されたようだ。  土民が水害から免れん為の祈願として大和国吉野の丹生川上神社から勧請した。 昭和二十年三月の戦災により荒廃したが、昭和三五年に無事再建されて現在に至っている。
 祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神である。

東大島神社 江東区大島7-24-1

 都営新宿線「東大島」駅にて下車。大島口より新大橋通りを西へ進むと約400m先に歩道橋がある。 ここで道路を渡り、更に一本北側の道に入ると60mほど先に鎮座している。(徒歩約7分)




 大島地区東部にあった永平稲荷神社・子安稲荷神社・小名木稲荷神社・北本所牛島神社・南本所牛島神社の五社が昭和二〇年三月の大空襲により一切が灰燈に帰した。 そのため昭和二十四年に五社は合併し「東大島神社」を創立した。昭和五十三年に現在の社殿及び参集殿を新築した。更に平成十四年に御鎮座50年事業として社殿の修復が行われている。
 祭神は天照皇大神、牛島大神、稲荷大神。


豊栄社石祠[文政二年]

水神宮石祠

庚申塔[天明七年]

六角石塔

力石

大島稲荷神社 江東区大島5-39-26

 都営新宿線「大島」駅にて下車。A5口より丸八通りを南へ進むと約400m先、小名木川に架かる丸八橋の手前に鎮座している。(徒歩約5分)




 大島稲荷神社は、慶安年間(1648-1652)に創建したと伝えられ、大島村・大島町の鎮守であったと云う。 明治三十六年に浅草(入谷)の太郎稲荷神社を、昭和十九年に大島村愛宕神社(大島5丁目)を合祀。
 祭神は蒼稲魂神。宇迦能魂神、迦具土之命(愛宕神社)を合祀している。


境内社/佐竹神社-鳥居

境内社/佐竹神社-社殿

松尾芭蕉像

 境内社/佐竹神社は昭和六十三年に造営された。
 「女木塚」句碑にある一句は元禄五年(1692)翁が深川より小名木川近在の門人桐奚宅の句会に行く途中船を留め神社に立ち寄り参拝し、句会で詠まれたもの。
 秋に添て 行ばや末ハ 小松川

妙法稲荷神社 江東区東砂2-3-2

 都営新宿線「大島」駅にて下車。丸八通りを南へ向かう。 丸八橋を渡ったら交差点で左折し、東へ向かい四つ目の信号の処で末広通りに右折する。 100mほど進むと左側に鎮座している。(徒歩約22分)




 妙法稲荷神社は、慶長年間(1596-1615)に河内枚方の荻勘七郎が当地を開拓、妙法耕地と名づけられた当地に、萩新田の鎮守として創建したと云う。
 祭神は宇迦之御魂命。


生田神社 江東区東砂3-17-17

 都営新宿線「大島」駅にて下車。丸八通りを南へ向かう。 丸八橋を渡ったら交差点で左折し、東へ向かい四つ目の信号の処で末広通りに右折する。 右手に因速寺の処まで来たら左手の路地に入り、更に最初の左側の脇道に折れるとすぐその先に鎮座している。(徒歩約22分)




 慶安年中(1648〜1651)当地開発のさい、土地の鎮守となった。 元禄初年(1688〜1703)疫病流行の際には里民当社に祈願し安全を得、特に産婦の安全を守護し、神徳を崇め遠近より参詣が多い。
 祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。

大塚天祖神社 江東区東砂4-2-18

 都営新宿線「大島」駅にて下車。丸八通りを南へ向かう。 右手に「砂町商店街」が見えたら横断歩道を渡り東へ向かうと先代堀川公園にぶつかる。 公園の先の道まで行き、南へ向かい清州橋通りにぶつかる一つ手前の左手路地に折れるとすぐその先に鎮座している。(徒歩約25分)







 寛永年間(1624-44)に大塚新田村の鎮守として勧請。昭和47年に元神明の碑を仙台堀川沿い松本橋付近から天祖神社の裏に移設。


亀高神社 江東区北砂4-25

 都営新宿線「大島」駅にて下車。丸八通りを南へ向かう。 右手に「砂町商店街」が見えたら商店街に入り途中「赤札堂砂町店」の先で左に折れるとすぐその先に鎮座している。(徒歩約20分)




 亀高神社は、当地亀高新田開拓の際に五穀豊穣の神として寛永年間(1624-44)に創建、亀高新田村の鎮守であった。 昭和三十八年地守稲荷神社を合祀、亀高稲荷神社と改称した。
 祭神は倉稲魂命。

志演尊空神社 江東区北砂2-1-37

 都営新宿線「西大島」駅にて下車。明治通りを南へ向かい、清洲橋通りと交差する「境川」交差点まで行くと右手に鎮座している。(徒歩約24分)




 寛永元年(1624)、菅原長寛が稲荷大神を勧請、「深川稲荷」と称し土地の氏神とした。 その後、元禄年間、時の将軍徳川綱吉が鷹狩りの途中で参拝、社名を「志演神社」と改名せられた。
 又、正徳二年(1712)の夏、当地に伝染病が流行し死者が多数に及んだ時、当社五代目別当、菅原快円が病魔退散と天下泰平、五穀成就を祈念して柴燈大護摩を焚いたところ病は止まったと云う。此のことから当時の人々は「ごまの稲荷」と当社を呼んだ。
 尊空親王は伏見邦頼親王の御子にして、寛文三年(1663)12月関東に下向、深川五本松にて隠棲される。 親王死去の後、村民その徳を敬慕して邸跡に小祠を建てて村の鎮守としてあがめ奉る。 その後松平伊豆守抱屋敷内に祠れた稲荷大神を社殿と共に村内に寄附され、社名を「尊空稲荷神社」と称した。
 昭和二十年(1945)3月9日の戦災により境内全て焼失。 昭和二十二年(1947)3月「志演神社」と「尊空稲荷神社」を合祀して社名を「志演尊空神社」に改名した。
 祭神は倉稲魂命、須佐之男命、伊耶那美命、尊空親王、手力男命。

豊賀岡八幡宮 江東区南砂1-15

 都営新宿線「西大島」駅にて下車。明治通りを南へ向かい、清洲橋通りと交差する「境川」交差点まで行くと右手に鎮座している。(徒歩約24分)




宇迦八幡宮 江東区千田12-8

 都営新宿線「西大島」駅にて下車。A1口より出て新大橋通りを西へ200mほど進み、「住吉銀座商店街」交差点で左折し小松橋通に入る。 約600mほど真っ直ぐ進むと「清洲橋通り」にぶつかる。 道路を渡り一辻先で左折し、100mほど先の二辻目で右折するとすぐ先に鎮座している。(徒歩約15分)





猿江神社 江東区猿江2-2-17

 都営新宿線「住吉」駅にて下車。A1口より出て新大橋通りを西へ200mほど進み、「住吉銀座商店街」交差点で左折し小松橋通に入る。 約300m先、「猿江神社前」交差点の先に鎮座している。(徒歩約8分)




 平安時代後期、源頼義・義家(八幡太郎義家)父子による奥州遠征(前九年の役)において、数々の奉勝を立てた家臣に『猿藤太』(さるのとうた)という武将がいた。 武勇の士と讃えられた人物であったが、此の地の入江で力尽きてしまった。 これを知った地元の漁師達が手厚く葬り、当社の境内に塚を建て葬った。 此に因んで猿藤太の「」と入江の「」の字を取り結び「猿江」の社名になったと伝えられる。
 神社の創立年代は不詳ながら、康平年中(1058)頃には近在の信仰を一身に集め、稲荷社として境内地五百余坪を有したという。 なお、築七十余年を経ている国内でも最古の部類に入る鉄筋コンクリート造りの社殿は、旧社殿が関東大震災にて焼失後、昭和六年に宮内庁設計技官の設計により当時としてはとても珍しい頑丈優美な造りの神社として再建された。 このため大東亜戦争の東京大空襲にて、近隣一帯(深川)は灰燼に帰したが奇跡的に難を免れた。 昭和二十一年に伊勢大御神を合祀し、社名を猿江稲荷神社より改称してからも「猿江のお稲荷さん」として親しまれている。


藤森稲荷社

馬頭観音社

 

 藤森稲荷社: 江戸時代初期には幕府の、明治時代には宮内庁の御用材蔵に祀られ、四百年余に渡り木材作業に従事する人々の厚い信仰を享けてきた神社である。 藤の木で囲まれ、毎年花の咲く時期に祭りが行われていた事がその名の由来とされる。これらの縁起により、木材作業・建築工事関係の信仰が篤い。 平成13年に、区の有形文化財である石水盤[貞享三年(1686)]・石燈篭1対[弘化五年(1858)]と共に当社境内に遷座される。
 馬頭観音社: 馬頭観世音の刻印の上より「馬」の絵を彫り、「馬方」の絵の石と併わせた、大小1対の珍しい碑が祀られている。 旅行・交通安全、又、競走馬関係の参拝も多い。

日先神社 江東区猿江1-22-12

都営新宿線「住吉」駅にて下車。A1口より出て新大橋通りを西へ200mほど進み、「住吉銀座商店街」交差点で左折し小松橋通に入る。 約300m先、「猿江神社前」交差点の先に鎮座している。(徒歩約8分)




 日先神社(ひのさきじんじゃ)、日ノ先神社とも表記する。正徳年間(1711-1716)または延享年間(1744-1748)に創建と伝わる。 船橋大神宮の末社であった摩利支天祠を祀り直したという。 「江戸名所図会」や「東都歳時記」といった江戸時代の書物にも掲載されている。
 摩利支天尊と永喜稲荷大明神を祀る。 摩利支天とは仏教の神様であり、太陽の前に先立ち進むと言われることから、明治以降に「日先神社」と改称した。

亀戸浅間神社 江東区亀戸9-15-7

都営新宿線「東大島」駅にて下車、A1口より出て新大橋通りを西へ100mほど進み「大島八丁目」交差点で右折し、首都高7号「小松川線」の先の交差点まで北上する。 この交差点で右折すると100mほど先左手に鎮座している。


大鳥居

拝殿

神額「浅間神社」

 室町時代の大永七年(1527)、富士信仰の尤も盛んな頃に、甘露寺元長に勧請し、霊峯富士山の御守護神「木能花咲耶姫命」を戴き、この笄塚の上に浅間神社として創立された。
 祭神は木花咲耶比売命である。
 平成十年に移築された社殿は関東大震災後の昭和初年の建立の、戦災をくぐり抜けた木造建築である。


境内末社/稲荷神社・下浅間神社

富士塚/入口

 元々この辺りは「高貝洲」と呼ばれていた。これは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄が現在の亀戸浅間神社のある辺りに流れ着いたことによるもの。 後に景行天皇(第十二代と伝えられる)がその地に笄塚を建てたとされている。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めた。

亀戸の富士塚

 亀戸の富士塚は、弟橘姫の笄塚(こうがいづか)と伝わる従来からあった塚を再利用する形となっている。 頂上部は広く平坦に整地され、そこに浅間神社が富士山の方向(西南)を向いて鎮座していたが、平成九年、亀戸・大島・小松川地区再開発事業に伴い、隣接地に移転した。
 塚の側面は溶岩(黒ボク)で覆われ、山腹の正面(西南側)及び左右側面には、登山道に見立てた石段があり、麓にかけて石碑が23基、石猿が2体附属している。 このうち左側面石段脇の烏帽子岩、左側面上部にある小御岳山碑、右側面石段脇の経ヶ岳碑の三碑は、当初の位置からは動いているが、実際の富士山と共通させた「名所石」で、富士塚の構成上重要な石造物となっている。 そのほかの石碑は、当地で活動していた富士講のひとつ"丸不二講"のもので、明治以降の年号が彫ってある。
 丸不二講は、亀戸・大島・南堅川(以上江東区)・柳原(千代田区)・向島(墨田区)などの講員から成り、その活動は大正時代頃まで続けられていた。


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