東京港区は、区内をJRや地下鉄が縦横に奔っているので、駅を決めてその周辺の神社を気楽に探訪してみた。
NO. | 神社 | 住所 | 参拝年月 | メモ |
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01 | 乃木神社 | 港区赤坂8-11-27 | 2011/10/14 | 千代田線「乃木坂」駅1分。 |
02 | 赤坂氷川神社 | 港区赤坂6-10-12 | 2011/10/14 | 南北線「六本木一丁目」駅5分。 |
03 | 麻布氷川神社 | 港区元麻布1-4-23 | 2011/09/09 | 大江戸線「麻布十番」5分。港七福神 |
04 | 十番稲荷神社 | 港区麻布十番1-4-5 | 2011/09/09 | 大江戸線「麻布十番」駅3分。港七福神 |
05 | 飯倉熊野神社 | 港区麻布台2-2-14 | 2011/06/17 | 大江戸線「赤羽橋」駅。港七福神 |
06 | 久國神社 | 港区六本木2-1-16 | 2015/01/14 | 南北線「六本木一丁目」駅。港七福神 |
07 | 天祖神社 | 港区六本木7-7-7 | 2018/10/12 | 大江戸線「六本木」駅。港七福神 |
08 | 櫻田神社 | 港区西麻布3-2-17 | 2015/01/14 | 大江戸線「六本木」駅。港七福神 |
09 | 白金氷川神社 | 港区白金2-1-7 | 2011/09/09 | 三田線「白金高輪」駅 |
10 | 愛宕神社 | 港区愛宕1-5-3 | 2011/06/17 | 日比谷線「神谷町」駅5分。 |
11 | 虎ノ門金刀比羅宮 | 港区虎ノ門1-2-7 | 2019/08/21 | 銀座線「虎ノ門」駅1分。 |
12 | 葺城稲荷社 | 港区虎ノ門4-1-3 | 2012/01/13 | 日比谷線「神谷町」駅。 |
13 | 狸穴稲荷社 | 港区麻布狸穴町63 | 2012/01/13 | 大江戸線「麻布十番」駅。 |
14 | 烏森神社 | 港区新橋2-15-5 | 2012/01/13 | JR山手線「新橋」駅。駅近なのにやっと参拝出来た。 |
15 | 日比谷神社 | 港区東新橋2-1-1 | 2012/01/13 | JR山手線「新橋」駅。平成21年7月31日夜無事遷座。 |
34 | 鹽竈神社 | 港区新橋5-19-7 | 2021/06/18 | JR山手線「新橋」駅。 |
16 | 讃岐小白稲荷神社 | 港区浜松町2-9-8 | 2011/12/16 | JR山手線「浜松町」駅。 |
17 | 西久保八幡神社 | 港区虎ノ門5-10-14 | 2011/06/17 | 日比谷線「神谷町」駅 |
18 | 増上寺/熊野神社 | 港区芝公園3-3 | 2011/12/16 | 三田線「御成門」駅。 |
19 | 幸稲荷神社 | 港区芝公園3-5-27 | 2011/12/16 | 日比谷線「神谷町」駅。 |
20 | 芝東照宮 | 港区芝公園4-8-10 | 2011/12/16 | 三田線「芝公園」駅すぐ。 |
21 | 芝大神宮 | 港区芝大門1-12-7 | 2011/06/17 | JR山手線「浜松町」駅5分。 |
22 | 御穂鹿嶋神社 | 港区芝4-15-1 | 2011/09/09 | JR山手線「田町」駅3分。 |
23 | 春日神社 | 港区三田2-13-9 | 2011/12/16 | JR山手線「田町」駅8分。 |
24 | 元神明宮神社 | 港区三田1-4-74 | 2011/12/16 | 大江戸線「赤羽橋」駅。 |
25 | 亀塚稲荷神社 | 港区三田4-14-18 | 2011/12/16 | JR山手線「田町」駅10分。 |
26 | 御田八幡神社 | 港区三田3-7-16 | 2011/12/16 | JR山手線「品川」駅 |
27 | 稲荷神社 | 港区三田4-14-18 | 2011/06/17 | JR山手線「品川」駅 |
28 | 高輪神社 | 港区高輪2-14−18 | 2011/12/16 | JR山手線「品川」駅 |
29 | 高山稲荷神社 | 港区高輪4-10-23 | 2011/12/16 | JR山手線「品川」駅 |
30 | 秋葉神社 | 港区北青山3-5-26 | 2015/11/11 | 銀座線「表参道」駅 |
31 | 船光稲荷神社 | 港区南青山3-4-11 | 2015/11/11 | 銀座線「表参道」駅 |
32 | 大松稲荷神社 | 港区南青山5-1-7 | 2015/11/11 | 銀座線「表参道」駅 |
33 | 広尾稲荷神社 | 港区南麻布4-5-61 | 2021/01/13 | 日比谷線「広尾」駅5分 |
【履歴】
・2021/06/18(金): 塩竃神社を参拝 ・2015/01/14(水): 久國神社、天祖神社、櫻田神社を参拝
・2021/01/13(水): 広尾稲荷神社を参拝 ・2012/01/13(金): 烏森神社、日比谷神社を参拝
・2019/05/05(日): 天祖神社の写真更新 ・2011/12/19(月): 各地の稲荷神社を主に参拝
・2015/11/12(木): 銀座線「表参道」駅傍の秋葉神社を参拝 ・2011/10/15(土): 赤坂氷川神社、乃木神社を参拝
東京メトロ千代田線「乃木坂」駅1番出口より徒歩1分のところにある。
一の鳥居(中山鳥居形) |
二の鳥居(神明鳥居形) |
拝殿 |
明治天皇崩御に殉じて自刃した乃木将軍の精神を永世に伝えるための祭儀斎行の場としての乃木神社創立の許可が大正八年(1919)に下り、大正十二年11月1日(1923)鎮座祭が斎行された。 昭和二十年5月25日(1945)未明の東京空襲により社殿を悉く焼失、昭和三十七年9月13日(1962)本殿・幣殿・拝殿の復興、末社赤坂王子稲荷神社が勧請された。
境内末社/赤坂王子稲荷神社 |
境内末社/正松神社 |
【境内末社/赤坂王子稲荷神社】
乃木夫妻が崇敬していた王子稲荷神社を勧請して昭和三十七年に創立された。
【境内末社/正松神社】
乃木将軍が師事した玉木文之進と、その甥の吉田松陰を祀っている。昭和三十八年に萩の松陰神社から御分霊を勧請し創立された。
菊面石(ナンダモンダ) |
さざれ石 |
【菊面石】
江戸時代、この石の成因がわからず「ナンダモンダ」と呼ばれていたそうだ。
【さざれ石】
外観上小さな石の隙間が炭酸カルシュウムや水酸化鉄等で埋められ固化した石。多くの神社に祭られている。
乃木将軍と辻占売少年像 |
【乃木将軍と辻占売少年像】
乃木将軍と辻占い売りの少年の話は、明治24年、乃木希典が陸軍少将の時代に用務で金沢を訪れたときの話である。
希典は金沢で偶然当時8歳の今越清三郎少年に出会う。今越少年は辻占いを売りながら一家の生計を支えていた。
この姿に感銘を受けた希典は少年を励まし、金二円を手渡した。
今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績をあげた。
この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和四十三年に六本木六丁目の旧毛利家の池(ニッカ池)の畔に立てられ、その後六本木六丁目開発のおり、ここ旧乃木邸に移された。
赤坂氷川神社は東京メトロ南北線「六本木一丁目」駅より徒歩5分の処にある。
鳥居 |
本殿 |
村上天皇の御代、蓮林僧正が霊夢を感得し、現在の赤坂4丁目に祀ったと伝えられている。
治暦二年(1066) 関東地方に大干ばつが発生した際、霊験あらたかであったことから、「氷川明神」として地域の住民に篤く崇められたと伝えられている。
ここ赤坂氷川神社は江戸七氷川の筆頭に挙げられる古社である。
享保十五年(1730) 徳川吉宗により現社地に遷座した。
現在の社殿はこの時造営されたもので、都の有形文化財に指定されている。
明治元年(1868) 准勅祭社に列せられた。
祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)である。
力石 |
九神社 |
大銀杏 |
四合稲荷 |
【赤坂氷川神社の力石】(港区登録有形民俗文化財 平成七年(1995)3月27日登録
「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものとのこと。
区内の力石は全部で14点確認されているが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この1点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例となっている。
【九神社】
天祖神社・春日神社・鹿嶋神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社、以上の九社を合祀した社。
【大銀杏】(東京都港区指定文化財 平成6年9月27日)
目通り(地上1.5m高)の幹径約2.4m、幹周約7.5mを測る樹齢400年の巨樹である。
【四合稲荷】
明治三十一年古呂故(ころこ)稲荷、地頭(じぬし)稲荷、本(もと)氷川稲荷、玉川(たまがわ)稲荷を遷座合祀し、幕末より赤坂在住の勝海舟により、『四合(しあわせ)稲荷』と称えられた。
大正十四年には鈴降(すずふり)稲荷神社、及び縁起(えんぎ)稲荷神社の二社を、 また昭和九年に明徳(めいとく)稲荷神を遷座合祀し、現在に至っている。勝海舟筆の「四合稲荷社」という神額も現存している。
西行稲荷 |
包丁塚 |
【西行稲荷】
享保の時代、田町五丁目(現在の赤坂3丁目付近)に西行五兵衛というものがおり、榎坂を通行中に狐の形をした三寸程の稲荷のご神体らしい像を拾い、勧請したため、「西行稲荷」とした。
町の発展に伴い、大正10年氷川神社境内に遷宮し、別名「火伏の稲荷」とも謂われ、火災除のご利益があると云われている。
【包丁塚】
赤坂青山は、味を競う飲食店が多く集まっていたこともあり、料理人が使い古したり破損した刃物を供養するため赤坂青山料理飲食業組合が連合会設立二十五周年を期に、この因りの地氷川の神域に"包丁塚"を建立し毎年感謝の誠を捧げお祀りしている。
都営大江戸線「麻布十番」駅4番出口の前の通りを道なりに進み、"大黒坂"を登り"一本松"を経てしばらくすると全行程約5分ほどのところ左手に氷川神社が鎮座している。
鳥居 |
社殿 |
社号標 |
麻布一本松 |
麻布氷川神社は素盞嗚尊を主祭神とし、日本武尊を配神としている。
天慶五年(942)、源経基が平将門の乱平定のため東征した折、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布冠の松(現麻布一本松)の地に創建されたと伝えられている。なお一方では、文明年間(15世紀後半)に太田道灌が勧請したという説もある。
江戸初期までは、暗闇坂と狸坂をはさんだ2,000坪以上の広大な社域を持ち、社の二の鳥居が鳥居坂上に、三の鳥居が永坂にあったとも言われ江戸氷川七社の一つとしての面目を保っていた。
そしてこの場所に現在も残されている一本松は麻布氷川神社のご神木であったといわれている。
しかし、それまでの社地が萬治二年(1659)に増上寺隠居所となることが幕命により申し渡され現在の地に遷座した。
港区七福神のひとつで、毘沙門天を祀っている。
手水舎 |
境内社(高尾稲荷) |
現役引退した狛犬 |
破損石仏(右は庚申塔) |
都営大江戸線「麻布十番」駅にて下車し、麻布十番一丁目交差点に出るが右手が十番稲荷神社だ。
港七福神に指定されており、七福神をお祀りする各社寺7カ所に加え、宝船の巡拝所となっている。 また鳥居の右側には「蛙の御守」が置かれ、本殿前には昭和12年コロンビアレコードの音丸さんが奉納した狛犬が鎮座している。
都営大江戸線「赤羽橋」駅で下車し赤羽橋口より桜田通り(国道1号線)を北へ約500m進むと飯倉交差点手前100mの左手に鎮座している。
鳥居を潜り境内に入ると、神社には似つかわしくない地蔵尊が佇んでいた。
熊野神社は社伝によれば養老年間(717〜724)芝の海岸に勧請され、その後、現社地に遷座したという。
文明年間(1469〜87)太田道灌により再興され、宝物が寄進されたと伝わっている。
明治五年(1872)村社に列格され、昭和二十年(1945)米軍の爆撃により社殿等灰燼に帰したが同二十七年に再建された。
なお”港七福神”の一社になっている。
東京メトロ南北線「六本木一丁目」駅下車、東京方向へ徒歩3分の処にある。
鳥居 |
社殿 |
神額 |
創建年代は不詳。昔から千代田村紅葉(皇居内)にあったと云われている。
寛正六年(1465)、太田道濯が江戸城築城にあたり城隍の鎮守として溜池に遷座した。
寛保元年(1741)には現在地に遷座、昭和二十年(1945)久国神社と改称した。
港区七福神の布袋尊を担っている。
東京メトロ大江戸線「六本木」駅下車、7番出口より外苑東通り(都道319号線)の横断歩道を渡りすこし右手先にある龍土町美術館通りに入る。 そのまま進むと徒歩5分の処にある。
参道口 |
社殿 |
満福稲荷社 |
飯倉城山に至徳元年(1384)創祀されたと伝えられ、品川沖から毎夜、竜が灯明を献じたということから「竜燈山」と称されたと云う。
江戸城改築の際、元和年間(1615-1624)に当地へ移転、「龍土神明宮」と呼ばれた。
明治十二年村社に指定、大正十五年には撰幣帛料供進社に定められている。
現社殿は昭和三十二年(1957)の再建である。また、平成二十八年(2016)春、隣接する複合ビル「トライセブン ロッポンギ」の新築工事に連動して行われていた境内整備と社務所改築工事が竣工した。
祭神は天照大御神、伊邪那岐命、伊邪那美命。
港区七福神の福禄寿を祀る。
東京メトロ大江戸線「六本木」駅下車、徒歩10分の処にある。六本木ヒルズの近くにある。
一の鳥居 |
二の鳥居 |
社殿 |
櫻田神社は、源頼朝の命により渋谷庄司重国が霞山桜田明神として霞ヶ関桜田門外に鎮座、文明年中(1461-86)に大田道灌が再興し、慶長の頃櫻田溜池の台へ遷座した。
さらに寛永元年(1624)に麻布へ遷座したと云う。
旧地名より霞山明神・霞山神社とも称されていた。
明治五年村社に指定され、明治二十八年には社号を「霞山稲荷神社」から「櫻田神社」へと改めた。
港区七福神の寿老神を祀っている。
都営三田線「白金高輪」駅の2番出口から国道1号線を30mほど南へ進み「白金1丁目」交差点で芝新宿王子線(都営305号)に折れ西方向へ約250mほどいった左手に鎮座している。
鳥居 |
社殿 |
社号標 |
白鳳時代、日本武尊が東征の折に大宮氷川神社を遥拝した当地に創建されたと伝えられている。
江戸時代中期の明和九年(1772年)に明和の大火で焼失し、江戸後期に社殿が再建された。
昭和二十年(1945)東京大空襲によって江戸後期の社殿が焼失した。現在の社殿は昭和三十三年(1958)に竣工したもの。
祭神は素盞嗚尊、日本武尊、櫛稲田姫。
手水舎 |
建武神社 |
末廣稲荷神社 |
東京メトロ日比谷線「神谷町」駅より徒歩5分のところにある。
参道入口 |
一の鳥居と「出世の石段」 |
愛宕神社がある愛宕山は標高25.7m。出世の石段を登り切った右手には、山の証しである三角点がある。
天然の山としては23区内で一番の高さである。
愛宕神社の参道石段は下から見上げると大変な急勾配で、年寄りには大変難儀な参道だ。
いくら”出世の石段”と言われても、もう余生なので”出世”に何の価値も無いし、...。参拝後は楽な裏手の愛宕トンネル脇の普通の石段を降りた。
朱塗りの門 |
社殿 |
愛宕神社は、慶長八年(1603)江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られた。
主祭神として火産霊命(火の神)を祀る。
昭和三十三年に御本殿、幣殿、拝殿などが再建され現在に至っている。
太郎坊社・福寿稲荷社 |
弁財天社 |
池 |
太郎坊社は猿田彦神(天狗様)を祭神とする末社。
福寿稲荷社は宇迦御魂神を祭神とする末社。
弁財天社は市杵島姫命を祭神とする末社。
招き石 |
撫でると福が身に付くという”招き石”を、少しでも福が到来すればと思い丁寧に撫でさせて戴いた。
東京メトロ銀座線「虎ノ門」駅より徒歩1分のところにある。
表参道口鳥居 |
裏参道口鳥居 |
二の鳥居(銅製鳥居) |
創祀は万治三年(1660)、讃岐(現在の香川県)の丸亀藩主・京極高和の邸宅を愛宕下に建造した際、讃岐金刀比羅大神をその邸宅に勧請したことが始まり。当宮は江戸城裏鬼門の位地にあり、江戸城の鬼門除けの神としても鎮座していた。
以来、虎ノ門琴平大権現と称えられ、五穀豊穣、豊漁満帆、海陸安穏、万民太平の御神徳が広まり、東国名社の一つとして信仰を集めている。
祭神は大物主神。
銅製鳥居は、文政四年(1821)に奉納された明神型鳥居で、左右の柱上部には四神の彫刻が施されており大変珍しいもの。四神とは四方の守護神であり、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武が守る霊鳥霊獣である。
平成十三年(2001)に港区指定有形文化財・建造物として指定された。
社殿 |
喜代住稲荷神社 |
結神社 |
先の戦災により全て焼失してしまったが、昭和二十六年(1951)に拝殿と幣殿が再建された。
ともに総尾州檜造り、銅板葺きの権現造り。日本最初の建築史家、伊東忠太氏の設計校閲による建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられている。
平成十三年(2001)に東京都選定歴史的建造物に指定された。
尚、幣殿の奥に位置する本殿は昭和五十八年(1983)に再建されている。
境内には、結神社・喜代住稲荷が本殿に向かって右側に祀られている。
東京メトロ日比谷線「神谷町」駅で降り、直ぐ近く北側に鎮座している。
建物にはホロが被せられ、境内は雑然とし、なぜか手水舎脇に砲弾?の置物が置かれていた。
参拝した時間が丁度昼時で中年のサラリーマンが弁当を食べていた。(令和元年に社殿が再建されている)
元禄四年(1691)に葺手町(現・虎ノ門四丁目)の人たちによって発見された稲荷神社。
葺手町は、江戸時代の当初(1600年代前半)現在の内幸町にあり、江戸城及び街造りの屋根職人が集まった町だった。
元禄四年七月に江戸城の拡張、江戸の整備の為、現在のこの地に代地替えを倫じられ、移り住んだときに当社が発見された。
(「江戸町方書上」)
都営大江戸線「麻布十番」で下車し、6番出口を出て大通りを左へ。最初の路地を左折し、そのまま進み突き当たったら右折するとその先の公園の中にある。
この稲荷社は、講談「狸穴の婚礼」の社ではないかと云われている。
麻布村に「狸穴」という穴があった。
この穴は品川の御殿山から四谷まで続いていたそうで、この穴の中に住む数千のタヌキが田畑を荒らしたり、子供を取ったりして付近の百姓を苦しめていたという。
徳川家康が江戸入府時、家臣の井伊直政はこの噂を聞きつけ、家老の豪傑・奄原助左右衛門にタヌキ退治を命じた。
助左右衛門と50人の家来が麻布村の狸穴に入って行くと、美少年が現れ助左右衛門を主人の御殿に案内した。
美少年の主人は婚礼の儀式の最中で助左右衛門らにも酒を勧めた。
家臣たちは怖がり誰も手を付けなかったが、助左右衛門は気にせずに呑んだ。
やがて酔った助左右衛門が寝入ってしまうと館の主人がその枕元に立ち、「俺は狸穴の主人だ。こしゃくな奴だがその方の剛胆に免じて、今日はこのまま帰してやる。
江戸も騒がしくなったのでまもなく引っ越すから、退治は無用」と言ったが、 目覚めた助左右衛門は、「今日は主人の命令でお前を退治しに来た」と持っていた刀を抜き斬りつけた。
すると今までいた御殿は一面の炎とともにかき消え、館の主人も消えた。
そして炎の中から数百のタヌキが助左右衛門に飛びかかり、助左右衛門は刀を抜いて戦った。
やがて「御家老さま、如何しました?」という家来の声で気がつき、辺りを見回すと、すべては夢であった。「恐ろしい奴らだ」と穴から出て陣屋に帰った。
その後、天正十八年八月十日、麻布一帯に家鳴り・地響きが起こった。
助左右衛門は地鳴りの原因を狸穴のタヌキと考えて数百の家臣を連れて穴の前に行ってみると、狸穴のタヌキが行列をなして引越しの最中であった。
そこで助左右衛門は躊躇いなく鉄砲を撃ちかけ、すべてタヌキを退治してしまった。
その後麻布は家も増えて立派な町になったが、その時に退治された子ダヌキがたった一匹残り、ネコの父に育てられた。
六代家宣の頃、この首領狸の忘れ形見が徳川家に祟りをなし、麻布狸穴能勢豊後守邸に出没した狸の怪物を友人勝田備後守が仕留める。
災いを恐れた能勢家は「狸の怪物」を庭に埋め、その上に稲荷を祭った。
JR山手線「新橋」駅烏森口で下車し、新橋ビル脇の烏森通りを歩き四つ角の先の右手に出店参道がある。
鳥居 |
社殿 |
神額 |
社伝によれば、天慶三年(940)平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。 その矢によって速やかに乱を鎮めることが出来たので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げした。 秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが始まりであるという。
「きやり塚」石柱 |
力石 |
明暦の大火で江戸の殆どが焼失したが烏森神社とこの"きやり塚"は焼けずに残った。
この"きやり塚"は、め組一番組の奉納物である。
力石には「五拾貫余 汐留 兵吉 車屋 英治 芝土橋 久太郎」と縦に彫られている。
【きやり塚】
木遣塚(きやりづか)は、元禄年間に江戸城普請の時うたい始めた木遣節を後世に伝えるために建てたものだ。
JR山手線「新橋」駅汐留口でおり、第1京浜を250mほど品川方向に歩くとJR線路橋の先左手にある。
鳥居 |
拝殿 |
神額 |
日比谷神社は、古くから旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座し、日比谷稲荷明神旅(さ)泊(ば)稲荷明神と称していた。
慶長十一年(1606)、江戸城築城に際し日比谷御門を造営することとなり、氏子と共に芝口に移動となりますが、町名は従来のまま、日比谷となっていた。
しかし、寛永7年(1630)新橋に新しく芝口御門を造営することになり、町名も日比谷町から芝口町へと改称することになったが、神社の社号は変えることなく現在に到る。
平成二十一年に、都市道路計画(環状2号線)の建設に際し、東新橋二丁目に遷移し御社殿を建造した。
祭神は豊受大神、祓戸四柱大神である。
摂社-稲荷社 |
日比谷公園の中にあった頃、全国の苦しんでいる旅人たちに神社の社務所を開放し、無病息災の祈願を受けさせたところ、霊験が殊更に著しくあらわれ、旅人や周囲の人々は「旅泊(さば)稲荷」と唱えた。 新橋に遷った後に魚の鯖に変わり、"鯖稲荷"と呼ばれるようになったとのこと。
JR山手線「新橋」駅で降り烏森口から、烏森通りを少し西方向に歩き交差点で柳通りへ左折する。 暫く直進し、外堀環状線を横断、更にまっすぐ130mほど行くと右手に塩釜公園があり、公園の奥に神社がある。
鳥居 |
社標 |
拝殿 |
この神社は、はじめ元禄八年(1695)に今の東新橋にあった伊達家上屋敷内に領地の鹽竈神社本社から分霊を迎えて祀られていたものが、安政三年(1856)に移転され、邸内社として私に祀っていた。その後一般の人々にも参拝を許し、本社に同じく安産の神様として信仰を受けた。
祭神は鹽土老翁神、武甕槌神、経津主神。
稲荷社−鳥居 |
稲荷社−石社祠 |
境内社として参道左手に稲荷神社(倉稲魂命)が鎮座している。 稲荷社石祠の後ろに大黒様(大国主命)と恵比寿様(事代主命)の石製尊像が坐している"福"神社だ。
JR山手線「浜松町」駅金杉橋口を出て芝公園方向に歩き始め、最初の四つ角を左に折れると30mほどのところにある。
鳥居 |
鳥居 |
神額 |
神額 |
この神社は珍しい造りで、二つの鳥居と一つの社殿となっており、讃岐、小白の両稲荷を合祀している。
書上によれば文政(1818〜1829)の頃の創建と云われている。
讃岐社は四国の高松藩の大名である松平氏の下屋敷の邸内社であったものが、明治維新以降に芝新網町に開放されたといわれている。
一方、小白社は、芝湊町(現浜松町2-13)古川際辺りに鎮座していたものが、昭和13年の区画整理のさい合祀された。
御祭神は倉稲魂神(稲荷神)で、生成発展の守護神であるとともに、火伏の大神として古来より崇敬をあつめている。
手水舎 |
百度石 |
力石 |
【力石】
四十■貫目と五十五貫目の石。
桜田通り(国道一号線)に戻り、神谷町方向へ向かう。「神谷町」交差点を過ぎ、「麻布台一丁目」交差点の手前50mのところに西久保八幡神社の鳥居が建っている。
参道の階段を上り境内に足を踏み入れると、少し広めの境内のあちこちにサラリーマンと思わしき人たちが屯していた。大きな木々の下で昼時のリフレッシュなのだろうなー。
社号表と一の鳥居 |
参道石段と二の鳥居 |
拝殿 |
寛弘年中(1004〜1012)に源頼信によって創建され、室町時代に太田道灌が江戸城を築城する際に現在の地に遷されたといわれている。
境内にある西久保八幡貝塚は縄文時代の貝塚で、東京都指定文化財になっている。
芝増上寺の境内社で増上寺正門の右手(北端)に鎮座している。
鳥居 |
拝殿 |
神額 |
手水舎 |
祭神は熊野本宮大社/家津御子大神(ケツミコノオオカミ)、熊野那智大社/大己貴命(オオナムチノミコト)、熊野速玉神社/伊弉諾尊(イザナギノミコト)である。
大本山増上寺みこし講の代紋である八咫烏の足跡が、みこし講発足30年を記念し行なった熊野神社(境内)修復改修工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向って三箇所の烏の足跡が付いていた。
このため熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じ、この八咫烏を描いた水盤を奉納したとのこと。
東京メトロ日比谷線「神谷町」駅4a口から新橋方向に芝学園下交差点まで直進、ここで右折し道なりに200mほどの徒歩約6分のところにある。 場所的には東京タワーの裏手になる。
鳥居 |
社殿 |
神額 |
幸(さいわい)稲荷神社は、江戸初期の寛永年間に府内古社十三社に定められ、 東京でも最も古い神社の一つと考えられている。 当社の創立は時代を更にさかのぼる応永元年(1394)四月、 武蔵国豊島群岸之村(現在の芝大門芝公園十号地)の鎮守として勧請されたと伝えられております。 古くから、この付近は鎌倉街道にあたり、人々の往来も盛んで、郭公の名所としても知られ、 江戸時代にいたって境内には講談寄席、大弓場、水茶屋等が常設され非常なにぎわいをみせていました。 社号ははじめ岸之稲荷と称せられてたが、氏子・信者中に幸事が続出したためいつの頃からか、 幸稲荷神社と尊称されるようになった。
手水舎 |
御祠石(みふくらいし) |
末社-茅野・松野天満宮 |
【御祠石(みふくらいし)】
「影向石」・「御福良石」とも呼ばれる霊石で、伝承によれば、観智国師(増上寺十三世)が徳川家康の帰依を受け、増上寺が芝の地に移転してきたとき、国師の夢枕に岸之稲荷大明神が現れ、「この石に腰掛けて、荒廃した社殿を再建すれば、寺を守護し、氏子崇敬者の繁栄を守る」と託宣したと言われている。
この石に水をかけて祈願すると熱病が癒え、子供の夜泣きが忽ち止むとの伝えがある。
【茅野・松野天満宮】
明治三年(1870)の神仏分離令により、増上寺境内に鎮座していた熊野神社・茅野天満宮・松野天満宮・瘡護神社、金地院境内に鎮座していた稲荷神社・三峯社を合祀した。現在、茅野天満宮・松野天満宮は境内社として祀られている。
瘡護神社は本社拝殿に「幸神社」とともに社号額が掲げられ、鳥居脇にも社号標が建てられている。
都営三田線「芝公園」駅で降り、A4出口から出ると直ぐ傍だ。
鳥居(明神鳥居形) |
社殿 |
神額 |
手水舎 |
不動明王像 |
元来は増上寺内の社殿だった。徳川家康が慶長六年(1601)還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を、自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和二年(1616)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。 同年10月に着工し翌元和三年(1617)2月に竣工した。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。 これが芝東照宮の起源である。 その後、3代将軍家光により寛永十年(1633)に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となる。寛永十八年(1641)には移転改築された。 駿府城より移築の惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整った。 明治初期の神仏分離令で増上寺から切り離されて芝東照宮となった。明治六年(1873)郷社に列された。 本殿は大正四年(1915)旧国宝に指定されたが、昭和二十年(1945)5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失してしまった。昭和四十四年(1969)現在の社殿が再建された。
JR「浜松町」駅にて下車し北口より徒歩5分。
鳥居(神明鳥居形) |
拝殿 |
芝大神宮は、伊勢神宮の祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神として祀っている。 鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005)一条天皇の御代に創建された由緒ある社である。 古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され、鎌倉時代においては源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受けた。 江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい、大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め「関東のお伊勢さま」として数多くの人々に崇敬されてる。
社号標 |
力石 |
生姜塚 |
【芝大神宮の力石】(港区有形民俗文化財 平成7年(1995)9月26日指定)
芝大神宮の力石には、"五十貫余"の切付とともに"川口町 金杉藤吉"の名前がある。
これは、明治時代に活躍した有名な力持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉、通称"金杉の藤吉"のことで、芝大神宮で力持ちの興行が行われた時、藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている。
【生姜塚】
神社創建の時代、周辺には生姜畑が繁茂していたため、これを神前に供えたといい、その撤下を食すと風邪に罹りにくくなると評判となり、爾来、例祭期間中に生姜を授与するようになったそうだ。
JR山手線田町駅で下車、三田口から第一京浜(国道15号)を右手に歩き、60m先になる第一田町ビルの先の脇道を入ったところにある。
鳥居と拝殿 |
獅子山 |
後村上天皇の頃当地に気高き老翁いて、俗人に交じりささやかな庵を結び村人を教え導いていた。
翁の没後その高徳をしたい庵の跡に宮所を設け尉殿の宮と崇めたと云う。
平成十七年(2005)社殿の老朽化により、鹿嶋神社を御穂神社に合わせ祀った。
さらに翌十八年(2006)11月25日、旧鹿嶋神社の社地に建立された新しい社殿に遷座した。
祭神は藤原藤房卿(御穂神社)、武甕槌命(鹿嶋神社)である。
JR田町駅で下車、慶応通りを通り桜田通り(国道一号線)まで出る。東京タワーが見える右手に進み慶応大学東門横にある。 約徒歩8分である。
鳥居 |
拝殿 |
社伝では、天徳二年(1958)武蔵国司・藤原正房が藤原氏の氏神である春日大社の第三殿に祀られている天児屋根命を荏原三田邑に奉斎したことを創祀としたと伝えられている。
建仁三年(1203)弘法大師作とされる十一面観音を祀りました。天文年間(1544〜55)現社地に遷座した。
江戸時代、寛永寺の創建に伴い、その末寺の妙禅院が別当となり、三笠神宮寺と称した。
江戸府内唯一の春日社として、徳川将軍や諸大名の崇敬が篤かったといわれている。
旧社殿は総欅造りで彫刻が見事だったが、先の大戦の戦災で焼失し、昭和三十四年(1959)に現在の社殿が再建された。
御祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。
手水舎 |
福徳稲荷 |
赤羽稲荷 |
馬頭観世音塔 |
歌碑 |
【赤羽稲荷】
江戸末期芝公園丸山に祀られていた赤羽稲荷神社は当時赤羽の地に二十七番札所として名高い円明院に勧請され、商売繁盛諸祈願成就の御神徳にて大いに繁栄した。
昭和二十年5月の大空襲にて全焼してしまった。
平成六年、当社境内に新に神殿を建立し御遷座奉斎された。
都営大江戸線「赤羽橋」駅より麻布十番方向へ進み、直ぐの十字路で左折し古川を渡り、中の橋交差点を真っ直ぐ突っ切り約50m程だ。 元神明宮神社に隣する坂道は神明坂と呼ばれている。
平安時代の寛弘二年(西暦1005年)一條天皇の勅命により創建された。 江戸に入府した徳川家の命により神宝・御神体が飯倉神明(現在の芝大神宮)に移される際、氏子・崇敬者の熱意により境内に御神体だけは渡せないと隠し留め、昼夜警護して守ったと伝えられており、以来、”元神明宮”と称され今日まで多くの崇敬を受けてきた。
JR山手線「田町」駅より約10分の聖坂の途中クエート大使館傍にある。
鳥居 |
社殿 |
かつては旧三田台町(現三田四丁目16−20)の亀塚公園にある亀塚の頂に鎮座していたが、明治の初めに旧・三田功運町の現社地に遷座した。
当社の創建年代は不詳ですが、『更級日記』に記されている竹芝伝説に関わる由緒が伝えられている。
それによれば、竹芝の衛士の屋敷(後の竹芝寺)は亀塚公園及び隣接する済海寺のあたりにあったそうだ。
その邸内にあった酒壺の下に白い霊亀が住み着いた。
それを当地の人々が神として祀り、和合豊熟を祈願したところ、非常に霊験があったそうである。
それから年を経たある夜大雨が降り、翌朝土地の人々が参拝にいくと、酒壺も亀も石になってしまっていた。
人々が驚いて祠を設け、ますます崇敬するようになったのが亀塚稲荷のはじまりであるという。太田道潅は河図と名付けて、篤く帰依したと伝えられている。
正徳四年(1714)亀塚周辺は沼田藩土岐氏の下屋敷となり、当社もその邸内社となったようだ。
明治維新後は華頂宮邸となったが、当社は現社地に移転し、三田功運町の鎮守となった。
水盤 |
弥陀種字板碑 |
【弥陀種字板碑】
全国でも中世の関東地方に著しい信仰の特徴といわれる板状の秩父青石、すなわち緑泥片岩に刻まれた供養塔である。
弥陀を表す記号(種子)を上部に刻み、頂部を山状に切りだした秩父型の板碑三基には、それぞれ「文久三年(1266)十二月」「正和二年(1313)八月」「延文六年(1361)」の造立年が陰刻されており、特に文永三年の刻銘は、港区に現存する板碑の中では最古である。
これらの板碑は、以前は当神社付近にあったものとも、荏原郡上大崎(現品川区上大崎)にあったものともいわれている。
なお、境内には他に二基の板碑があるが、これらは摩耗が激しく、造立年などは知り得ない。
(港区教育委員会)
JR品川駅高輪口を出て国道京浜15号線を田町方向へ歩き10分程だ。
鳥居 |
拝殿 |
神額 |
和銅二年(709)東国鎮護の神として鎮祀され延喜式内稗田神社と伝えられている。
何度かの遷座を経て寛永五年(1628)現在地に鎮座した。明治三十年御田八幡神社と改称した。
祭神は誉田別皇尊(ほんだわけのみこと)で、相殿神として天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿祢命(たけのうちすくねのみこと)を祀っている。
手水舎 |
神楽殿 |
境内社/五光稲荷神社・御嶽神社 |
境内社/稲荷社 |
JR「品川」駅高輪口に出て、国道京浜15号線を田町方向へ歩き10分程だ。
鳥居と社殿 |
昔月の岬(現在の三田台町)に出没した亀が一夜のうちに石と化し、里人はこの亀の霊を祀り祠を設けた。
のち、太田道灌がこの地に物見台(燈台)を置くにあたりこの祠を守護神として社を創立し、その神体はこの霊亀であるとの伝えがある。
祭神は宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)である。
JR品川駅高輪口を出て国道京浜15号線を田町方向へ歩き7分程である。
鳥居 |
本殿 |
神額 |
室町中期の明応年間(1492年〜1501)に稲荷神社として創建された。
弘化二年1月24日(1845年3月2日)の大火で類焼し石門、石大鳥居等を残し全て焼失した。
昭和四年(1929)社名を稲荷神社から高輪神社に改称した。現在の社殿は昭和55年(1980)に造営されたものである。
御祭神は宇迦御魂神(稲荷大神)、相殿神に誉田別命(応神天皇)、猿田彦神を祭っている。
手水舎 |
太子堂 |
大黒像と恵比寿像 |
石塀の壁画(左) |
石塀の壁画(右) |
【太子堂】
明暦年間(1655〜1658)に聖徳太子十六歳の尊像(太子御自作と伝えられる)を祀ったものである。
JR「品川」駅高輪口を出て京急口側へ進み横断歩道を渡り左手へ行くと50m程のところにある。
鳥居 |
拝殿 |
神額 |
高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の御分霊・正一位福聚稲荷大明神の御分霊を祭祀している。 往時の文献によれば今から凡そ五百年前当地域に神社の建立を御勧請し神社を建立したと記されている。
手水舎の水口 |
石灯篭(おしゃもじさま) |
【おしゃもじさま】(港区登録有形民俗文化財 平成六年(1994)3月22日指定)
「おしゃもじさま」は、縁結びの神として祀られている。
このおしゃもじさまは、もとは切支丹燈籠で、一説には高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養するために建てられたといわれ、また海中より出土したともいわれている。
東京メトロ銀座線「表参道」駅にて下車、A3出入口を出るとすぐ右手、表参道に面して鎮座している。
鳥居(靖国鳥居型) |
社殿 |
社殿(拡大) |
文政十年六月(1827)の創立といわれ、昔は青山善光寺境内で鎮守本社として奉祭したが、明治維新後、神仏判然の別により同寺院より分割された。 祭神は稲荷大神・秋葉大神・御嶽大神(木曽の御嶽)三神を奉斎するがゆえに「三社さま」とも、また「秋葉神社」とも俗称する。 青山の鎮守としてもっぱら火防神として尊崇されている。
東京メトロ銀座線「表参道」駅にて下車、青山通りを東京方向へ300mほど進み、右手三井住友銀行の先で脇道に入る。 150mほど進むと左手に鎮座している。
寛文二年三月二十二日(1662)の創立。往時この付近に居住した渋谷長者の勧請で、代々一族の崇敬篤く、昔は「霧島神社」と称し、その当時は非常に繁昌をきわめたという。 渋谷長者歿落の後は、里人の守護神として信仰せられ現在に至る。 また「長者丸稲荷」・「船光稲荷」とも称せられた。船光とは此の付近に滝川があったために、これに縁ある名といわれている。
東京メトロ銀座線「表参道」駅にて下車、表参道を根津美術館方向へ進むと50mほど先信号のある四つ角右手に鎮座している。
当社はもと金王八幡宮の境外末社で、通称「大松稲荷」または「仲町稲荷」と呼ばれていた。 往時この地に巨松一株があり、躯幹蟠屈枝条碗蜒、その翠蓋二十余間におよび、百人町の通りを圧し、霊松と称えられたが、のち暴風雨のために吹折られ根株のみをとどめて、その上に社殿を造営し、今もその床下に巨大なる松の根株を存すると云う。
東京メトロ日比谷線「広尾」駅にて下車、右手に鎮座している。
広尾稲荷神社は、慶長年間(1596-1615)徳川秀忠が鷹狩りの折に当地に稲荷社を勧請、麻布御花畠富士見御殿の鎮守だった。
太平洋戦争後、富士見稲荷を合祀した。
祭神は宇迦魂之命(倉稲魂命)。
拝殿が青山火事と呼ばれる火災により焼失したが、その後、再建され今日に至っている。
関東大震災後の大正14年(1925)には本殿と幣殿が建造された。
社殿は木造明神造り、御神体は木造翁の立像。拝殿の天井には日本画の先駆者高橋由一画伯の日本画最後の大作とされている龍画が描かれている。