事事関心! 神社探訪
[ 東京都大田区(3) ]
神社探訪: 東京都大田区(3)          2017/11/24(金) 更新
徳持神社 

 東急池上線「池上」駅下車、池上通りへ出て左折し川崎方向へ300mほど行くと右手道路沿いに鎮座している。


表参道口鳥居(靖国鳥居型)

社殿

神額「徳持神社」

徳持田中稲荷神社


 徳持神社の創建年代は不詳ながら、建長年間(1249-55)の創建と伝えられている。 現在地より南側(現池上七丁目曹禅寺付近)に鎮座し、徳持村の鎮守となっていたが、池上競馬場の開設に伴い当地へ移転した。
 祭神は誉田別命。
 明治四十一年、徳持上宿に鎮座していた稲荷神社を合祀。


太田神社 大田区中央6-3-24

 東急池上線「池上」駅下車、池上通りへ出て右折折し大森方向へ800mほど進み、「太田神社参道」交差点で左折しまっすぐ250mほど進むと突き当りに鎮座している。


表参道口

鳥居

社殿

舞殿

稲荷社

 長い太田神社参道の突き当りに表参道口が位置し、鳥居を潜ると10mほど行った先に長い石段の参道が続いている。

 太田神社の創建年代は不詳だが、家運八幡宮と称していたといい、当地市野倉村の鎮守社であったと云う。 太田神社の御神体"八幡大菩薩"は、像高は台座を含め15.5cmあり、背部に"正八幡"と"那須與一宗高"の墨書が確認できる。 明治時代に入り、神仏分離に伴い「太田神社」に改称、隣接していた長勝寺は別当職退いた。 また、明治四十五年には周辺にあった竃神社、稲荷神社、貴船神社を合祀した。旧社殿は昭和二十年の大空襲で舞殿と共に焼失、昭和二十八年に社殿が造営されご神体も長勝寺からこの社殿に遷座した。
 祭神は誉田別命、竃神社(奥津彦命、奥津姫命)、稲荷神社(宇迦御魂命)、貴船神社(高麗命)を合祀している。

湯殿神社 大田区南馬込5-18-7

 都営浅草線「西馬込」駅で下車し、駅前の第二京浜国道「西馬込」交差点東側のわき道に入り道なりに徒歩5分程(約300m)行った処にある。


鳥居

拝殿

 湯殿神社の創建年代は不詳だが、馬込村のうちの根古屋谷の鎮守で、江戸時代には羽黒権現と呼ばれていた。
 祭神は大巳貴命、少彦名命。




馬込八幡神社 大田区南馬込5-2-11

 都営浅草線「西馬込」駅で下車し、駅前の第二京浜国道を東京方向に350mほど進み「馬込坂下」交差点の次の信号で東側のわき道に入り道なりに徒歩2分程(約150m)行った四つ角左手にある。


鳥居

神門

拝殿

 馬込八幡神社は、建久四年(1193)渡辺対馬守正久が、岩清水八幡宮の分霊を勧請、翌年遷宮したと云われている。 江戸期には旧馬込村の総鎮守、明治期には、村社に定められていた。
 祭神は品陀和気命。


舞殿

境内社

稲荷社

 境内社として稲荷神社(保食命)、氷川神社(素盞嗚命)、三峯神社(伊弉册命)、御霊社(馬込全町の戦没者霊)がある。

新田神社 大田区矢口1-21-23

 東急多摩川線「武蔵新田」駅から駅前で線路を横切る道を左手に進み、すぐの五差路で正面の武蔵新田商店街の通りに入る。 まっすぐ歩くこと数分、右手に鎮座している。


鳥居

拝殿

神額「新田神社」

 新田義興公が正平十三年十月十日矢口の渡で憤死し、その祟りを鎮めるため、村老達が塚を築き正平十三年(1358)新田明神社として創建した。  延享三年(1746)には石城国(福島県)守山藩主松平頼寛が石碑(矢口新田神君之碑)を造立。 太平洋戦争終戦まで府社に列格していた。
 新田義貞の次男新田義興を祭神とする。
 明治四年(1871)に品川県によって社殿が造営されたが、昭和二十年(1945)4月の空襲により全焼した。 明治神宮で仮社殿として建てられていた神明造の本殿と幣殿を特別に下付され、昭和三十五年(1960)になって復元奉建し、現在に至る。 拝殿は流造りで、社殿の復元造営の際にあわせて新築された。


神輿庫

多摩川七福神「恵比寿人」

氷川神社「神輿・山車」

氷川神社「神輿・山車」と六番組「纏い」

 神輿庫は平成20年10月の「鎮座650年大祭」を記念して新築された。 この神輿庫には、氷川神社「神輿・山車」と地元江戸. 消防記念会六番組の「纏い」が納められている。
 また、2014年に設置された多摩川七福神の一柱、恵比寿人が祭られている。


欅(御神木)

御塚(おつか)

稲荷社

 樹齢700年を超える、欅(けやき)の御神木は江戸時代に落雷で真っ二つになっても生き延びた。更に昭和の戦火で周辺一帯が焼け野原になった際も、この木は無事に残った。
 社殿の裏には、義興を埋葬した「御塚(おつか)」がある。このなかに入ると祟りがあるといわれ、「荒山」,「迷い塚」との別称もある。

矢口氷川神社 大田区矢口1-27-7

 東急多摩川線「武蔵新田」駅から駅前で線路を横切る道を左手に進み、すぐの五差路で正面の武蔵新田商店街の通りに入る。 新田神社の前を過ぎ、すぐの丁字路で左折し、100mほど先の四つ角で右折し進むと右手に鎮座している。




 氷川神社の創建年代は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「村の東によりてあり。宮作にて3尺四方の社なり。前に鳥居をたつ。鎮座の年代詳ならず」と記載されている。
 祭神は素盞嗚尊。
 2014年に設置された多摩川七福神の一柱。大黒天を祭る。

今泉神社 大田区矢口2-2-21

 東急多摩川線「武蔵新田」駅から駅前で線路を横切る道を左手に進み、すぐの五差路で正面の武蔵新田商店街の通りに入る。 新田神社の前を過ぎ、更にまっすぐ進み、新田浴場先の丁字路を左折する。 150mほど先の四つ角をまっすぐ進むと30mほど先左手に鎮座している。




 今泉神社の創建年代は不詳だが、新編武蔵風土記稿によると花光院境内に八幡宮があり、花光院は快智(延宝二年(1674)寂)が創建したということから、江戸時代初期に今泉神社が創建したと考えられる。 江戸時代には今泉村(当地域)の鎮守となっていた。
 祭神は誉田別命。

十寄神社 大田区矢口2-17-28

 東急多摩川線「武蔵新田」駅から駅前で線路を横切る道を左手に進み、すぐの五差路で正面の武蔵新田商店街の通りに入る。 新田神社の前を過ぎ、更にまっすぐ進み、最初の信号のある交差点のすぐ先左手に鎮座している。




 新田義興とともに討死した支族・近習の将兵を合祀した神社で、社の背後に遺骸を葬ったとされる古塚がある。
 かつては「十寄明神社」と呼ばれていた。
 新田神社に詣でる際は、まず十寄神社に参拝して主君(新田神社)に取りなしてもらわなければ願いが叶わないとの言い伝えがある。 神社の由緒によると、祭神は世良田右馬助義周、井弾正左衛門、大嶋周防守義遠、由良兵庫助、由良新左衛門、進藤孫六左衛門、堺壱岐守、土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市川(市河)五郎。10名を祀ったので十寄(じゅっき、とよせ)神社、十騎(じゅっき)神社と呼ばれる(異聞として大嶋兵庫頭義世、松田興一、宍道孫七、堀口義満の4名も加わるとも伝わる)。
 2014年に設置された多摩川七福神の一柱。毘沙門天を祭る。

安方神社 大田区多摩川1-5-11

 東急多摩川線「矢口渡」駅から線路を渡り、さらに環状八号線を横断すると少し蒲田寄りに鎮座している。




 創建年代は不詳、かつては八幡社と称していた。 明治四十二年旧安方村内にあった釋護子社、神明社、第六天社を合祀、安方神社と改称した。
 祭神は誉田別命。

多摩川諏訪神社 大田区多摩川2-10-22

 東急多摩川線「矢口渡」駅から商店街を通り抜け、約400mほど南に進んだところで左折し、さらに170mほど先に行ったところに鎮座している。




 およそ六百年前の創建といわれる。当所上諏訪と下諏訪とは約3丁を隔て、上諏訪には建御名方命、下諏訪には八坂戸売命を祭神として近世に及んだ。 明治十三年(1880)二月に上諏訪即ち本社に下諏訪を合祀した。
 祭神は建御名方命、八坂戸売命。
 現社殿は平成十四年(2002)八月に造営されたもの。

道塚神社 大田区新蒲田3-4-10

 東急多摩川線「矢口渡」駅から商店街を通り抜け、約400mほど南に進んだところで左折する。 さらに170mほど先に行ったところにある諏訪神社の前を通り、更に三ケ目の四つ角で右折し進むと「道塚小学校前」交差点の先右手に鎮座している。




 創建年代は不詳だが、江戸期には日月宮と称し、隣接する大楽寺が別当寺を勤めていた。
 天保二年(1831)天祖神社と改称、大正三年に近隣の油山稲荷大明神、神明宮、熊野大権現、茅場稲荷大明神を合祀し、旧地名に因んで「道塚神社」と改称した。
 祭神は天照皇大神。

若宮八幡神社 大田区東矢口3-28-7

 東急池上線「蓮沼」駅で下車し、一番出入口より都道11号線を西へ60m進み最初の南へ向かう脇道に折れる。 まっすぐ進み、東急多摩川線の線路を超え、その60m先の四つ角で右折すると50mほど先右手に鎮座している。




 若宮八幡神社は、小林村が開村した際に村の鎮守として、鎌倉八幡宮を勧請したと伝えられ、「小林八幡神社」とも称する。
 祭神は誉田別命。

御嶽神社 大田区北嶺町37-20

 東急池上線「御嶽山」駅にて下車、1番側改札口から線路を横断する駅前の道を西方向(左手)へ進むと丁字路にぶつかるので右折するとすぐ前に鎮座している。




 御嶽神社の創祀は、嶺村(現嶺町地区)ができた天文四年(1535年)頃と謂われる。 当時は小社であり祠に近いものであったと推察されるが、後の天保年間(江戸時代後期)に木曾御嶽山で修業をされた一山行者が来社して以来信者が激増し、天保二年(1831年)に現在の大きな社殿を建立し御霊を遷座した。 拝殿中央には「三社宮」の扁額があり、御嶽信仰の三柱を祀った事による。
 祭神は国常立命・国狭槌命・豊雲野尊。







嶺天祖神社 大田区西嶺町4-10

 東急池上線「御嶽山」駅にて下車、1番側改札口から線路を横断する駅前の道を西方向(左手)へ進むと丁字路にぶつかるので佐折する。 道なりに進み、環八通りに出て、道路の反対側にわたると少し右手に鎮座している。




 寛文10年(1670)頃、嶺村の村民数人が伊勢神宮へ参拝し、拝受した御分霊を奉斎し創建された。 昭和四十八年(1973)、その補償金によって本殿・鳥居・社務所を造営、参道・玉垣などの境内整備が行われた。
 祭神は天照大御神。

嶺白山神社 大田区東嶺町31-7

 東急池上線「久が原」駅にて下車、1番側改札口から線路を横断する駅前の道を南西方向へ進むと200mほど先の環八通「白山神社前」交差点右手に鎮座している。







 創建時期は不詳だが、寛文五年(1665)頃といわれている。 古は女体権現社と称した。 新編武蔵風土記稿には荏原郡嶺村の項に「女體権現社 見捨地七畝社二間四方前ニ石階七級アリ 下ニ鳥居ヲ建ツ 柱間九尺祭禮九月四日」と記されている。 明治元年(1868)に白山神社と改称し、明治十五年(1882)道祖神社を合祀している。
 祭神は伊弉冉命・八衢彦命・八衢命の三柱を祀る。


鵜ノ木八幡神社 大田区南久が原2-24-1

 東急池上線「久が原」駅にて下車、1番側改札口から線路を横断する駅前の道を南西方向へ進み、環八通の「白山神社前」交差点で左折し、少し進んだところに斜めに分かれる道に折れ、道なりに進むと300mほど先に鎮座している。




 戦国時代の延徳元年(1489)、旧下野国佐野から旧鵜ノ木村へ移住してきた天明五郎右衛門光虎が八幡大神を奉斎し創建したとされる。 1847(弘化4)年に造営された旧社殿は、昭和二十年(1945)の空襲で焼失し、平成十二年(2000)に社殿等が再建された。 この時改めて八幡総本宮である大分県・宇佐神宮より御分霊が勧請されている。
 祭神は誉田別命。

藤森稲荷神社 大田区南久が原2-30

 東急多摩川線「下丸子」駅にて下車、線路を横断する駅前の道を北方向へ進み、環八通を横切り「ぬめり坂」のほうに入り進むと100mほど先左手に鎮座している。




 創建年代は不詳だが、新編武蔵風土記稿光明寺項に「稲荷社。大門前古松の傍にあり。藤森稲荷社と号す」と記載されている。


下丸子天祖神社 大田区下丸子3-10-8

 東急多摩川線「下丸子」駅にて下車、線路を横切る駅前の道を右手へ進み20mほど先で左折すると30mほど先右手に鎮座している。




 公園内に小さな鳥居と拝殿がある。


下丸子諏訪神社 大田区下丸子4-14-5

 東急多摩川線「下丸子」駅にて下車、線路を横切る駅前の道を右手へ道なりに進むと250mほど先に鎮座している。




 創建年代は不詳ながら、江戸幕府が編纂した新編武蔵風土記稿に「除地8畝24歩、村の西にあり。蓮光院持」と記載あり。
 祭神は建御名方命、八坂刀売命である。


六所神社 大田区下丸子4-16-5

 東急多摩川線「下丸子」駅にて下車、線路を横切る駅前の道を右手へ道なりに進むと250mほど先に諏訪神社がある。 その手前で左折すると100mほど先右手に鎮座している。




 鎌倉時代中期に荏原郡の領主となった荏原左衛門尉義宗が、四條天皇の御宇の文暦元年(1234)、当地に六柱の神々を奉斎したのが社の創祀であるとされている。 奉斎されている六柱の祭神は府中・大國魂神社の旧祭神と同一であることから、大國魂神社から勧請したという説が有力である。
 江戸時代には、現在も当社から至近に位置する壽福山蓮光院円満寺が別当として管理し、旧下丸子村の鎮守であった。 明治の神仏分離令により独立、終戦までは村社に列格していた。
 本殿は昭和十三年(1938)造。拝殿は嘉永五年(1852)造で昭和十三年(1938)に改築。更に、平成二十六年(2014)に改修が行われている。
 祭神は大己貴命・伊邪那岐命・素盞嗚命・大宮比売命・瓊々杵命・布留大神の6柱。


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