東京都墨田区にある神社の参拝履歴をまとめた。
NO. | 神社 | 住所 | 参拝年月 | メモ |
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1 | 牛嶋神社 | 墨田区向島1-4-5 | 2013/07/10 | |
2 | 三囲神社 | 墨田区向島2-5-17 | 2013/07/10 | |
3 | 江島杉山神社 | 墨田区千歳1-8-2 | 2014/03/26 | |
4 | 香取神社 | 墨田区文花2-5-8 | 2015/04/17 | |
5 | 吾嬬神社 | 墨田区立花1-1-15 | 2015/04/17 |
【履歴】
・2013/07/10(水): 07/10(水)墨田区神社参拝。
・2015/04/19(日): 04/17(金)墨田区立花を探訪。
東京メトロ銀座線、都営浅草線「浅草」駅で下車し、江戸通りを言問橋西交差点まで北上する。
右折して言問橋を渡ると右手にある墨田公園に隣接して鎮座している。(徒歩約10分)
(都営浅草線「本所吾妻橋」駅徒歩3分。)
一の鳥居 |
三輪鳥居と拝殿 |
貞観二年(860)慈覚大師が慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会った際の託宣により建立したとの伝えがある。
かつては「牛御前社」と称していた。本所総鎮守として崇敬を集め、明治時代には郷社に列格していた。
祭神は須佐之男命、天之穂日命、貞辰親王命。
手水舎 |
神楽殿 |
境内社: 小梅稲荷神社 |
撫で牛 |
小梅稲荷神社は、旧向島小梅町にあったと思われる稲荷で、震災後の区画整理で牛嶋神社と同時期に移築された。
"撫で牛"は、自分の体の悪い部分と同じ場所をなでると病気が治ると云われ、心身快癒の祈願物として信仰されている。
東京メトロ銀座線、都営浅草線「浅草」駅下車。江戸通りを言問橋西交差点まで北上する。右折して言問橋を渡り、言問橋東交差点の一つ手前の左手路地を200m程北上すると左手に鎮座している。(徒歩約12分)
一の鳥居 |
拝殿 |
神額「三囲社」 |
弘法大師が祀ったという田中稲荷が始まりとされ、当時は現在地より北の田んぼの中にあったようだ。
文和年間(1352-56)に近江の三井寺の僧である源慶が社を改築した折り、土中から老翁の神像が入った壷が出てきた。
その時、何処からともなく狐が現れて、像の周りを三度回って消えたという縁起から「三囲(みめぐり)」の名がつけられた。
隅田七福神/恵比寿神としても有名。
祭神として倉稲魂命を祀る。
二、三の鳥居 |
顕名霊社(三井家) |
三柱鳥居 |
ライオン像 |
顕名霊社は三井家先祖を祀っている。彫刻の下絵は川端玉章。明治七年建立で、平成六年に移築された。
三角石鳥居は、三井邸より移設された。原型は京都太秦の木島神社にある。
三井家は江戸進出時に、その名に肖り守護神とし、平成21年に旧三越池袋店からシンボルだった青銅製のライオン像が境内に移設された。
両国駅にて下車し、「一の橋通り」を南へ進み、一之橋(旧一ツ目之橋)を渡るとしばらくして東側に鳥居がある。
鳥居(明神鳥居型) |
社殿 |
元禄六年(1693) 杉山流鍼術の始祖、杉山検校が江の島弁財天を勧請して創建したと伝えられる。 昭和二十七年(1952)に社殿が再建され,その際に杉山検校も合祀して江島杉山神社と改称した。
手水舎 |
弁財天 |
裏参道鳥居(明神鳥居型) |
境内には江の島の弁天洞窟を模した洞窟があり、その奥に弁財天が祭られている。また,杉山検校の胸像と点字で銘文を刻み込んだ頌徳碑がある。
東武亀戸線「小村井」駅にて下車。明治通りを南へ250mほど進み「立花二丁目」交差点にて右折。100mほど行くと「文化二丁目」交差点の手前にある。
一の鳥居(靖国鳥居型) |
二の鳥居(靖国鳥居型) |
小村井香取神社は、永萬元年(1165)の葛西御厨の文書、応永五年(1398)の葛西御厨注文等に鎮守村名の記載があることから、平安時代末期に千葉県香取郡から移住・開拓した人々の氏神として創建したと云われている。
江戸時代には、東隣に作られた小村井梅園が盛況で、将軍家の御成りもあったと云われているが、明治四十三年の大水で廃園となってしまった。
祭神は経津主大神(伊波比主大神)。
拝殿 |
神額「香取神社」 |
手水舎 |
現在の社殿は、昭和二十九年の建立で、本殿は流れ造り、拝殿は入母屋流れ造りの総桧造りとなっている。
神楽殿 |
境内社: 諏訪神社 |
裏参道鳥居(靖国鳥居型) |
境内社として諏訪神社、三峯神社、天祖神社、稲荷神社、水神社、北野神社がある。
東武亀戸線「小村井」駅にて下車。明治通りを南へ500mほど進み「福神橋」手前で左折すると、直ぐの所にある。
参道口 |
境内口(靖国鳥居型) |
吾嬬神社は、日本武尊東征の際に相模から上総へ渡ろうとして暴風に遭い、弟橘媛が身を海に投じて暴風を鎮めたことから、日本武尊は当時浮き洲であった当地に上陸できた。
しかしながら、弟橘媛は行方知れずとなり、弟橘媛の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと伝えられている。
後、弟橘媛を慕って正治二年(1200)宇穂積臣の末葉、鈴木・遠山・井出の三家が吾妻権現として社殿を造営したと云われている。
祭神は弟橘姫命である。
社殿 |
神額「吾嬬神社」 |
手水舎 |
社殿の裏手に狛犬に守られた奥宮と云われる石祠が置かれている。