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[ 神社探訪: 横浜市保土ヶ谷区 ]
神社探訪: 横浜市保土ヶ谷区          2013/06/25(火)更新
コース案内

 横浜市保土ヶ谷区にある神社を探訪し参拝した。 保土ヶ谷区は相鉄線の帷子川沿いに広がる住宅街のようだ。自分にとって残念ながら相鉄線沿線はほとんど馴染みがない。 そこで、第一回目は東海道界隈を散策し、今回の三回目は相鉄沿線に点在する杉山神社を巡ってみることにした。

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 星川杉山神社 保土ヶ谷区星川1-19-1 2012/03/30 小高い丘の上に立つ
 02 帷子町杉山社 保土ヶ谷区西久保町118 2012/02/11 国道1号線際に鎮座
 03 神明社 保土ヶ谷区神戸町107 2012/02/11 旧東海道と相州道の交差点から八王子寄りに鎮座
 04 橘樹神社 保土ヶ谷区天王町1-8-12 2012/02/11 江戸方見付と帷子橋間の旧東海道沿いに鎮座
 05 八幡社 保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町137 2012/02/11 八幡橋を渡り約250m突き当りに鎮座
 06 外川神社 保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町196-1 2012/03/30 上方見付跡近くに鎮座
 07 和田杉山神社 保土ケ谷区和田1-10-4 2013/06/23 相鉄線「和田町」駅
 08 杉山社 保土ケ谷区仏向町553-1 2013/06/23 相鉄線「上星川」駅
 09 杉山宮 保土ヶ谷区上星川町469 2013/06/23 相鉄線「上星川」駅
 10 蔵王神社 保土ヶ谷区坂本町140 2013/06/23 相鉄線「上星川」駅
 11 川島杉山神社 保土ヶ谷区川島町896 2013/06/23 相鉄線「西谷」駅

・2012/03/30(土): 星川杉山神社、外川神社を参拝
・2013/06/25(火): 和田町から西谷までの主に杉山神社を参拝

星川杉山神社 横浜市保土ヶ谷区星川1-19-1

 相鉄線「星川」駅で降り、南口改札を出て前の道を進み、T字路で郵便局側(右手)に折れ安藤スポーツの所まで行く。 ここから左折し神明台の丘(重箱山)へ結構きつい坂道をひたすら登る。登りきったところにある保育園の所で左折すると隣接して鎮座している(徒歩10分)。


鳥居(明神鳥居)

拝殿

神額

手水舎

境内社/伏見稲荷社

御神木

 『続日本後紀』には、貞和五年二月二十二日(838)の条に、杉山神社に霊験、すなわち神さまによるご利益があるとして、朝廷より幣帛(ヘイハク)と呼ばれる捧げ物を授かったことが記されている。 嘉祥元年には、杉山神社の大神が神階従五位下を授けられたことが記されている。
 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀っている。

帷子町杉山社 横浜市保土ヶ谷区西久保町118

 JR横須賀線「保土ヶ谷」駅で降りる。東口(国道側)に出て、国道一号を横浜方向へ向かうと、約500m先に鎮座している。


鳥居(明神鳥居)

拝殿

 新編武蔵風土記稿によれば「宿の東の方下岩間町の内にあり。海道よりは2丁ばかり巽の方にあたれり。古社なれば當社もかの神社(延喜式神名帳記載の杉山神社)を勸請せしなるべし。本地は不動の坐像にして長1尺ばかりなりと云う。
 本社8尺四方にして1間半に3間の上屋あり、前に鳥居をたつ、其前に石階あり、例祭は年々9月28日なり、当所円福寺持。 末社小机稲荷社、本社の左の方あり。」と記されている。
 五十猛命を祀っている。


手水舎

石燈籠

境内末社/小机稲荷社
神明社 横浜市保土ヶ谷区神戸町107

 JR横須賀線「保土ヶ谷」駅で下車。西口に出て、横浜環状一号線を北東(横浜方向)へ向かう。 大門通り交差点で左折し旧相州道を進み、次の神明社前交差点の少し先に大きな鳥居が立っている。


鳥居(伊勢鳥居)

拝殿

 神明社は、平安時代中頃(970年)の創建と伝えられ、横浜市内では最も由緒の深い神社の一つとされている。
 鎌倉時代の始め、神様のお告げがあって現在の地に遷った時、伊勢神宮になぞらえて、天照大御神をまつる御本社のほか、豊受大神宮や境内神社が祀られた。
 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀っている。


手水盤

人形流しの池

水神社

 本殿前左手には"知らず知らずのうちに犯した罪"や"積もり積もった心身の穢れ"を除く人(ひとがた)形流しの池がある。

橘樹神社 横浜市保土ヶ谷区天王町1-8-12

 相鉄線「天王町」駅で降り、左手(横浜方向、旧東海道)に進む。帷子橋を渡った更に約150mの所に鎮座している。


鳥居(明神鳥居)

拝殿

神額

 橘樹神社は、文治二年(約八百年前)、源頼朝公天下の平和を賀し国中の大小の神祇に奉幣し祭祀の典を行った時の創建で京都祇園社(現在の八坂神社)の御分霊を勧請奉祀した。 このため当社も祇園社、牛頭天王社、天王宮、橘樹社等社名が変わり大正十年、正式に現在の社名となった。


手水舎

庚申祠と神田不動尊

力石

石盥盤

 本殿の左手の裏参道鳥居の横に力石、石盥盤が置かれている。 石盥盤は郷土史に「天王社へ江戸より石盥盤寄進せらる 延宝6年霜月」とある。
 さらに奥に横浜市内最古といわれる寛文9年(1669)の銘が刻まれた青面金剛庚申塔がある。

八幡社 横浜市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町137

 JR横須賀線「保土ヶ谷」駅で東口(国道側)に出て、国道一号を戸塚方向へ向かう。 横浜環状一号線との分岐点も国道一号を進み、約300m先の八幡橋前信号の所で左脇道に折れ、八幡橋を渡り約200m程道なりに進んだところに鎮座している。


鳥居(明神鳥居)

拝殿

 今の社殿は貞享元年の建立で、明治維新前は安楽寺持だった。明治六年村社に列せられ昭和三年十一月九日神饌幣帛料供進社に指定された。
 応神天皇(おうじんてんのう)を祀っている。


手水舎

稲荷社

戦没者慰霊碑
外川神社 横浜市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町196-1

 JR横須賀線「保土ヶ谷」駅で東口(国道側)に出て、国道一号を戸塚方向へ向かう。横浜環状一号線との分岐点も国道一号を進み、約700m先の信号の所に上方見付跡モニュメントがありその手前の仙人橋を渡ったところにある。


全景

拝殿(入母屋造)

神額

境内社/宇賀神社

 保土ヶ谷宿の内には江戸時代から出羽三山講があり、幕末の頃その講元で先達でもあったC宮輿一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請し、自分の屋敷内(現在の地)に奉祀、外川仙人大権現としたことが始まりと云う。 明治二年の神仏分離令により日本武尊を祭神と定め、社名を外川神社と改めた。


手水盤

社号標「外川仙人社」

社号標「外川神社」

境内社/稲荷社
和田杉山神社 横浜市保土ケ谷区和田1-10-4

 相鉄「和田」駅で下車、帷子川を渡り右折して川縁を横浜新道手前まで行くと新道下に子供公園があり、その向かい側に鎮座している。(徒歩5分)


鳥居

社殿

 江戸時代には帷子川は大きく蛇行しており、現在の八王子街道も神社もより山裾にあったようだ。
 祭神は日本武尊とのこと。



手水舎

境内社

石造物納舎

 石造物納舎にある青面金剛庚申塔は、側面に「左 八王子ミち」、「右 大山ミち」の道しるべが記されている。 当時、和田村には旧八王子道と相州道の分岐点があり、相州道は分岐後帷子川を渡り大山道に続いていたようだ。

杉山社 横浜市保土ケ谷区仏向町553-1

 相鉄「上星川」駅で下車、出入口2から帷子川を渡り水道道に出たら、左折し100mほど進む。四つ角で右折し坂本小学校を目指して進む。 坂本小学校を周回する道を裏手へ向かうと山縁にある。(徒歩5分)


一の鳥居

社殿

神額

 かつては「正福院(しょうふくいん)入口」交差点付近に鎮座していたが、宮崎跨線橋(みやざきこせんきょう)建設のため平成五年(1993)現在の場所に遷座された。
 五十猛命(いそたけるのみこと)を祀っている。


二の鳥居

手水舎

神楽殿

境内社
杉山宮 横浜市保土ヶ谷区上星川町469

 相鉄「上星川」駅で下車、出入口1から国道16号線「八王子街道」に出て、左手八王子の方へと向かう。 「杉山神社」交差点50m手前左手にある。(徒歩約7分)


鳥居

社殿

神額「杉山宮」

 由緒はわからない。鳥居の右奥には寛政四年(1792)の銘が記された「堅牢地神宮」碑があり、また、手水鉢には天保十三年(1842)の銘がある。ことから創建は天保年間より以前と思われる。
 日本武尊を祀っている。
 境内は近所の子供たちの遊び場になっており、かくれんぼなのか、一人は賽銭箱の裏に隠れていた。

蔵王神社 横浜市保土ヶ谷区坂本町140

 相鉄「上星川」駅で下車、南口から出て、帷子川に掛かる橋を渡り直ぐの「蔵王神社前」交差点に出る。突き当たった道を右手に進み坂の登り口左手にある。(徒歩3分)


鳥居

社殿

 創建年代は不詳。古くからここ坂本村には蔵王社と高根社の2社があり、明治政府の神社合祀政策で隣の矢崎村の杉山社に合祀されたが、昭和24年(1949)に氏子により分祀され再び現在の神社となったそうだ。
 大山祇神/大山積神(おおやまつみ)、高木神(たかぎのかみ)を祀る。


川島杉山神社 横浜市保土ヶ谷区川島町896

 相鉄「西谷」駅で下車、南口から川まで南へと向かう。川を渡り川縁の道を下流へ向かう。 鷲山橋で山側へ右折し、突き当りの三差路で左折すると、川島町少年野球場の先にある。(徒歩約15分)


鳥居

社殿

稲荷神社

 天文年間(1532-1555)に北条氏康が上杉朝定との戦いの時、この地に陣を張った夜、日本武尊の東征の夢を見て、その加護により勝利は必定であるとここに祠を建てて武運長久を祈った。 果たして勝利し、ただちに社殿を新築し、除地一反歩を与えて報恩の意を表したと伝えられている。 また、氏康は領民をいたわる気持ちが強く、戦乱久しく住民の困窮を救うために植林を奨励し、植林の祖神である、五十猛命を合祀したと伝えられている。
 明治六年村社に指定された。現社殿は昭和三十年五月の造営である。
 日本武尊、五十猛命を祀る。


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