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[ 神社探訪: 横浜市磯子区 ]
神社探訪: 横浜市磯子区  2015/02/22(日) 更新
コース案内

 横浜市(磯子区)にある神社を参拝した足跡。

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 根岸八幡神社 横浜市磯子区西町1-1 2014/01/29 
 02 八幡橋八幡神社 横浜市磯子区原町10ー9 2014/01/29 
 03 白山神社 横浜市磯子区上町12-5 2014/01/29 
 04 杉田八幡宮 横浜市磯子区杉田5-2-1 2014/01/29 
 05 田中神社 横浜市磯子区田中2-6-25 2015/02/19 「洋光台」駅
 06 栗木神社 横浜市磯子区栗木2-13-21 2015/02/19 「洋光台」駅
 07 若宮御霊神社 横浜市磯子区洋光台1-13-49 2015/02/19 「洋光台」駅
 08 金山神社 横浜市磯子区洋光台3-35-10 2015/02/19 「洋光台」駅

・2014/01/29(水): 磯子区16号線沿いを探訪
・2015/02/22(日): 02/19(木)「洋光台」駅北側を探訪


根岸八幡神社 横浜市磯子区西町1-1

 JR根岸線「根岸」駅で下車。駅前ロータリーを通り線路と平行する県道に出て、磯子方向へ歩き「根岸小学校入口」交叉点で右折し、少し(約100m)歩くと右手に根岸小学校がある。学校先の路地に入ると約100mほど先左手に鎮座している。





 欽明帝(きんめい てんのう)十二年(551)以前に該地点横の八幡川河口に流れ着いた八幡像を祀り創建され、横浜市内在所神社で最古の部類に属する。 元々は「八幡大神」と称し、根岸村の鎮守だったが、慶安四年(1651)の検地により鎮座地が滝頭村になったため、それから100年余りたった明和三年(1766)に根岸の地(現在地)へ遷座し、「根岸八幡神社」となった。


八幡橋八幡神社 横浜市磯子区原町10ー9

 JR根岸線「根岸」駅で下車。駅前ロータリーを通り線路と平行する県道に出て、磯子方向へ約8分歩く。3つめの「八幡橋」交叉点の手前右側に鎮座している。




 この地が慶安四年(1651)の検地に滝頭村に改められ、根岸八幡神社がより根岸村の鎮守「根岸八幡神社」が遷座された。 このため、その跡地に明和三年4月(1766)、滝頭村の鎮守として、八幡宮・三島明神・氷川明神を合祀・創建され、さらに安永五年(1776)、地頭小浜志摩守が東照宮(徳川家康公)を合祀した。


白山神社 横浜市磯子区上町12-5

 JR根岸線「根岸」駅で下車。駅前ロータリーを通り線路と平行する県道に出て、磯子方向へ約8分歩き、3つめの「八幡橋」交叉点の手前に川縁の道を川上へ進む。 「根岸橋」交叉点で右折し、左手2つ目の脇道に入る。磯子上町公園のところで右手の脇道の入口に「白山神社⇒」の案内があるのでこの脇道に折れ、さらに20m程先右手に路地があるのでその路地に入ると120mほど先にある。





 明治初年、神仏分離により寶積寺より別れ根岸村字上485に白山社として建立された。御神体は白蛇と謂れ、歯の神様として慕われてきた。



杉田八幡宮 横浜市磯子区杉田5-2-1

 JR根岸線「新杉田」駅で下車。国道16号線「横須賀街道」を横須賀方向へ進む。根岸線の線路下を通ったら最初の右手路地に入ると正面100m奥に鎮座している。(徒歩8分)




 永承六年(1051)源頼義公とその子義家公は天皇の命を受け、奥州の安倍氏を討伐し、前九年の役を鎮め、源氏の基盤を固めた。 康平六年(1063)その戦勝を祝い、父頼義公は、相模国に若宮八幡宮(現在の鶴岡八幡宮)を、子義家公は武蔵国に杉田八幡宮を鎮祭し、源家の武運長久を祈願したのが創建の由来と云う。


田中神社 横浜市磯子区田中2-6-25

 JR根岸線「洋光台」駅で下車。東側出口から線路沿い左手の道を東へ向かう。250mほど先に跨線橋があるので、ここで左折する。 100mほど進むと、右手に脇道があるので、その道に折れ、ゆるやかな坂道を150mほど上ると丁度坂の頂上左手に鎮座している。




 昔は御嶽社といった。 『新編風土記』によると、御嶽社は田中村の南にあり、江戸時代から「おみたけさん」と村の人々から親しまれていたと記されている。 御嶽社と称する社は古くから各地で造られ、磯子区内にはかつて6社の御嶽社があった。 田中村にあったのはそのうちの1社で、その開創は、天保時代(1830年〜)より前といわれている。
 明治四十一(1098)に神社の整理統合の規則ができ、同四十五年に上笹下村にあった10社は1社にまとめられ、栗木の日枝神社(現在の栗木神社)に合併することになった。 第二次大戦後、信教が自由になったのを機に、氏神様を元のところへ戻そうという意見が盛り上がり、昭和二十二年、御嶽社と神明社を御嶽社の旧社地へ仮殿を建て合祀し、田中町の町名を採って新しく「田中神社」とした。 同三十五年に新社殿が造営されたが、同四十六年に火災で焼失、翌年に再建された。 現在の社殿は平成十三年に新装されたものである。


栗木神社 横浜市磯子区栗木2-13-21

 JR根岸線「洋光台」駅で下車。東側出口から線路沿い右手の道を東へ向かう。350mほど先で階段道になっているので、そこを登り70mほど左手沿いに進むと道路沿いに鎮座している。




 もともとは山王信仰の神道、比叡山麓の日吉大社より勧請を受けた神社である日枝神社を名乗っていたが、創建については明確な由緒書きが残っていない。 しかしこの地は、古来武蔵の国の久良岐郡のほぼ中心に位置し、鎌倉時代から室町時代にかけて鎌倉防衛の要地でもあり、山岳信仰の修験が祀られた社であることから、創建は室町時代ではないかと云われている。 ちなみに、栗木の「クリ」は久良岐郡の「クラ」の名の源という説もある。
 明治四十五年には近隣の六ヶ村(谷部野、田中、栗木、上中里、峰、氷取沢)の各神社が栗木に合祀され、「上笹下神社」として祭事が行われていたと云う。 その後、昭和二十二年に再び六ヶ町に各社が分散され、今日に至っている。
 祭神は、山王社の祭神、国常立尊(くにとこたちのみこと)。 占いの神様といわれる櫛真知命(くしまちのみこと)の御岳神社、馬の守り神である駒形神の駒形神社を合祀している。


若宮御霊神社 横浜市磯子区洋光台1-13-49

 JR根岸線「洋光台」駅で下車。東側出口から線路沿い左手の道を東へ向かう。250mほど先に跨線橋があるので、ここで左折する。 350mほど先にある「洋光台第一小入口」交叉点で右折し、更に300mほど進むと、右手に「→若宮御霊神社」の案内板があるので、脇道に折れると神社の裏手に行ける。




 天文年間(1530年)頃、時の杉田の庄領主・間宮信元により開基された。 当社は、後北条の時、笹下城及び間宮氏の守り神として祀られ、若宮八幡宮はこの地笹下城若宮曲輪に、御霊権現社は旧笹下町四一四六番地に位置し、共に城の大手を守っていた。
 笹下城は杉田の湊を本領とした間宮水軍の根城であった。 若宮八幡宮は鎌倉鶴ヶ丘八幡宮より遷宮されたが、その本宮である石清水八幡宮の様式に倣って、八幡宮と間宮氏の祖先を祀る近江沙々貴神社を一体としてお祀りした。 後北条時代には杉田の庄の総社として扱われていたと言い伝えられている。
 江戸期に入り、共に小字笹下立野(洋光台一丁目笹下三丁目の一部)の村民持のお宮となった。 明治四十一年訓令により現在の港南区港南の天照大神宮(神明宮)に合祀されたが、平成元年十一月二六日に元のこの地に「篠木神社」として遷宮した。その後、平成十六年に現在の「若宮御霊神社」に改名し、現在に至っている。


金山神社 横浜市磯子区洋光台3-35-10

 JR根岸線「洋光台」駅で下車。東側出口から線路沿い左手の道を東へ向かう。250mほど先に跨線橋があるので、ここで左折する。 300mほど進むと右手に金山神社の案内板があるので、脇道に折れるとマンションの先すぐ左手に見える。




 開創時期は不明だが、鎌倉時代ではないかと伝えられている。 江戸時代には、火防・火伏(ひよけひぶ)せの神として広く信仰された秋葉権現と合祀して、「金山権現社」と名乗っていたようだが、明治初年、神仏分離になった際、この社の別当寺であった泉蔵院と分離し社名を「金山神社」に改めた。
 明治時代の末に栗木神社に合祀され、昭和二十二年(1947)に旧社地に戻し、「矢部野神社」と称し、それから10年後の昭和三十二年(1957)に、現在の社殿に建て替えたのを機に、社名を「金山神社」に戻した。 住宅街に囲まれたこぢんまりとした神社には、旧街道を臨む石段の途中に石の鳥居があり、「金山神社」と書かれた扁額が掲げてある。
 祭神は金山比古命/金山彦神(かなやまひこ)と金山比賣命/金山比女神(かなやまひめ)。 天照大神、素戔嗚尊/須佐之男命、宇迦之御魂神/倉稲魂命を合祀している。

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