円覚寺はJR横須賀線「北鎌倉」駅の改札を出て直ぐ左手の線路向かいにある。
円覚寺は弘安五年(1282)に北条時宗が元寇の戦没者追悼のため中国より無学祖元禅師を招いて創建した。
寺は創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府の篤い帰依を受け、寺領の寄進などにより経済的基盤を整え、鎌倉時代末期には伽藍が整備された。
室町から江戸時代にかけては度々火災に遭い衰退したが、江戸末期(天明年間)に大用国師(誠拙周樗)が僧堂・山門等の伽藍を復興し、宗風の刷新を図り今日の円覚寺の基礎を築いた。
寺名: 瑞鹿山 円覚興聖禅寺(円覚寺)
宗派: 臨済宗 円覚寺派大本山
建立: 弘安五年(1282)
開山: 無学祖元禅師
本尊: 宝冠釈迦如来
札所: 鎌倉観音霊場第33番、鎌倉地蔵霊場14番、東国花の寺百ヶ寺鎌倉11番
住所: 鎌倉市山ノ内409
アクセス: JR横須賀線「北鎌倉」駅下車、徒歩1分
【履歴】
・2012/10/16(火): 掲載。
山門 |
現在の山門は天明五年(1785)開山五百年遠諱の年に大用国師(誠拙周樗)によって再建された。
「円覚興聖禅寺」の扁額は伏見上皇(北条貞時の時代)より賜ったもの。
楼上に十一面観音像・十二神将・十六羅漢を祀っており、毎年6月18日観音懺法が行われる。
現在の円覚寺の伽藍の中で唯一関東大震災で倒壊しなかった建造物でもある。
山門から奥に、仏殿、方丈が中央一直線に並んだ禅宗の伽藍配置になっている。
仏殿 |
本尊/宝冠釈迦如来 |
震災で倒壊したが昭和三十九年に再建された。 本尊は冠を被る宝冠釈迦如来で、華厳の盧遮那仏とも称される。 本尊は弘安五年(1282)佛殿開堂の際に建立されたが、永禄六年(1563)の大火で焼失、顔のみが救出された。 後に江戸時代、天甫昌円によって寛永二年(1625)佛殿が再建される際に躰部が補造された。 その時、本尊様の両脇に梵天、帝釈天が祀られた。「大光明寶殿」の扁額は1378年後光厳天皇より賜ったもの。 天井に守屋多々志揮毫の白龍の図がある。
舎利殿 |
舎利殿は、当初のものは弘安八年(1285)頃または延慶二年(1309)に建立されたと云われている。 再三火災に会ったが、なかでも永禄六年(563)の火災では円覚寺が全焼した。 復興に当たって、舎利殿として鎌倉尼五山の一つであった大平寺の仏殿を、天正(元年は1573)の頃に移築した。
選仏場 |
薬師如来像 |
観音菩薩像 |
仏を選び出す堂宇のことで、元の坐禅道場。元禄12年(1699)に建立された。
仏殿ができるまでは円覚寺の本尊「宝冠釈迦如来像」が安置されていた。
現在は薬師如来像と観音菩薩像が安置されている。
妙香池 |
妙香池は建武二年(1335)の円覚寺境内絵図にみられるように創建当初よりある放生池で、平成十二年に江戸時代初期の絵図に基づき、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元された。向こう岸の露出した岩盤を虎の頭に見たてて「虎頭岩」とよんでいる。
鐘楼 |
洪鐘【国宝】 |
弁天堂 |
山門右手の山に向かい木立の中を進むと洪鐘・弁天堂へ上る急な石段がある。石段を上りきると,国宝の洪鐘をが吊るされた鐘楼がある。
洪鐘は正安三年(1301)執権北条貞時が命じ物部国光が鋳造したもので、鎌倉最大の高さ259.5cm、口径142cmの大きさで国宝に指定されている。
鐘楼のすぐ前には弁天堂が建っている。
洪鐘の鋳造は困難なもので,何度も失敗したと云う。
そこで江ノ島の弁天様に加護を祈ったところ、弁天様の化身の竜神が鐘のご神体に収まり完成することが出来き、この霊験に感謝して弁天堂が建てられたと云う。
観音堂 |
黄梅院は円覚寺がある谷の最も奥にある塔頭である。 北条時宗の夫人覚山尼(かくざんに)が夫の菩提を弔うために華厳塔を建立したところである。 後、分和三年(1354)足利氏が夢窓疎石の塔所をこの地に建て黄梅院を建立した。 境内には観音堂があり聖観世音菩薩が祀られている。
仏日庵 |
北条(本家)の廟所で、時宗、貞時、高時の遺骨を納めた石櫃が堂の下に埋められていると云われている。 庭には茶室「烟足軒(えんそくけん)」があり休息出来る。
白鹿洞 |
仏日庵の門前、道を挟んだところに「白鹿洞」と呼ばれている小さな洞窟がある。
円覚寺の落慶開堂の日、無学祖元の説法が始まると白い鹿の一群がこの洞窟から現れ聴聞したと云う。
円覚寺の山号の「瑞鹿山」はこの話を元に決まったと伝えられている。
ムラサキシキブ |
ムラサキシキブ(白実) |
ホトトギス |
横梅苑の庭に紫式部の紫の果実と白実のものがなっていた。また、ホトトギスは丁度見頃に咲いており、蜂が花から花へ蜜を求めて飛び回っていた。
庭園に咲く花に会えるのも古刹巡りの楽しみの一つだ。