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[ 京都市下京区/西本願寺 ]
京都市下京区/西本願寺【世界遺産】          2019/10/20(日)更新
探訪案内

 浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺は文永九年(1272)宗祖・親鸞聖人の末娘覚信尼が京都の東山大谷に建立した廟堂に始まる。 第三代覚如上人のときに本願寺と公称。第八代蓮如上人の尽力により大教団に発展した。
 その後、寺地は大阪、和歌山を転々としたが、天正十九年(1591)豊臣秀吉が寺地を寄進、現在地に移った。 慶長七年(1602)本願寺は東西に分立し現在に至っている。
 御影堂と阿弥陀堂はともに国宝。書院の庭園(特別名勝)は桃山文化を代表する枯山水様式。 その他、わが国最古の能舞台となる北能舞台、唐門など桃山文化を今に伝える国宝建造物を多数擁している。 美術関係では三十六人家集(国宝)などを所蔵。平成六年(1994)「古都京都の文化財」として、世界文化遺産に登録された。

寺名: 龍谷山 本願寺(通称: 西本願寺)
寺格: 本山
宗派: 浄土真宗本願寺派
本尊: 阿弥陀如来
住所: 京都市下京区堀川通花屋町下ル門前町60
アクセス: JR京都駅から北西方向へ徒歩約10分

【履歴】
・2019/10/20(日): 09/23(月)参拝
・2013/10/18(金): 09/30(月)探訪

総門 【重文】

総門

 「総門」は、京都の町を南北に走る広い堀川通によって通の西側にある西本願寺の境内と切り離され、堀川通と交差する正面通の入り口に立っている。
 総門は宗祖・親鸞聖人四百五十回忌に合わせた境内の改修事業の一環として、宝永八年(1711)に建立されたと見られるという。 門は「高麗門」と呼ばれる形式で、門扉の上に大きな屋根、左右の控柱(脇柱)の上に小さな屋根を設けている。 高麗門という形式自体は豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役ごろに城郭建築で用いられ始め、江戸時代になって神社仏閣の出入り口を仕切る門としても造られるようになったとされる。

御影堂門 【重文】

御影堂門

 御影堂門は、本願寺の堀川通に面した門のなかで一番大きな四脚門である。 構造は木造総欅造りで、屋根は入母屋、本瓦葺き、規模は間口35尺2寸(約11m)、奥行き24尺2寸(約7m)、棟高44尺8寸(約14m)で、扉は桟唐戸の形式である。 御影堂門の上棟(じょうとう)は正保二年十月(1645)。


唐門 【国宝】

唐門

 唐門は、北小路通に面して建つ四脚門で、数多の彫刻で飾られた荘厳華麗な桃山時代建築の国宝建造物である。勅使門ともいう。 門としての様式は、二本の本柱の前後に二本ずつ、計四本の控え柱が立てられている四脚門で、檜皮で葺かれた入母屋屋根の前後に唐破風が付く、向唐門だ。 書院の正門として設けられたものだが、元は御影堂の前にあった御影門を、元和四年(1618)に現在位置へ移築したと伝えられている。 なお、移築前は現在のような装飾が施されておらず、今に見られる姿となったのは、書院の改修が行われた寛永十年(1633)頃と考えられている。
 建築細部の彫刻を眺めていると日の暮れるのも忘れるといわれ、「日暮門」とも呼ばれる。

御影堂 【国宝】

御影堂

旧留蓋瓦(雌獅子)

旧留蓋瓦(雄獅子)

 西本願寺にある江戸時代建築の国宝。親鸞聖人の木像(ご真影)が安置されているところから、御影堂と称する。 元和三年(1617)の火災で焼失したが、寛永十三年(1636)に再建された。 内部は外陣と内陣に分かれ、外陣は多くの門信徒が参拝できるように、特に広く作られている。 高さ29m、東西48m,南北62m。 正面に掲げられている「見真」の額は、明治九年(1876)11月28日に明治天皇より親鸞聖人に贈られた大師号である。
 御影堂の向拝南北両隅には、獅子付きの留蓋瓦が据えられている。 北側が口を開けた「阿(あ)」の雌獅子、南側が口を閉じた「吽(うん)」の雄獅子である。 通常は互いに相対し、向き合うように配置されるが、御影堂では北側の獅子が南側の獅子を追いかけるかのように、二体とも体が南を向き、南側の雄獅子の顔のみが北に見返すという形になっている。 それぞれの足元には「文化六巳歳 大佛瓦師 森田平兵衛 細工人 権兵衛」「獻上 御瓦嘲 池永外記 法名三□」と刻字されており、文化年間修理時の文化六年(1809)に新調されたものであることが分る。 若干の差異はあるものの、それぞれ総高約76cm、重量約67kgもある。 今回の大修理では、残念ながら破損の程度が大きく再用出来ず二体とも新調された。 新調瓦は重量約70kgと若干重くなっている。

阿弥陀堂(本堂) 【国宝】

阿弥陀堂

 西本願寺にある江戸時代建築の国宝建造物である。 本尊である阿弥陀如来像を安置しているところから阿弥陀堂と称し、本堂ともいう。
 御影堂の北に位置し、単層、入母屋造、本瓦葺、高さ25m、東西42m、南北45m。御影堂とともに江戸時代の真宗伽藍の典型である。 現在の阿弥陀堂は、江戸時代の宝暦十年(1760)に12年の歳月をかけて再建されたものである。


書院 【国宝】

書院−門

書院−玄関

 白書院は対面所の北裏にある賓客を迎える正式の書院で、一の間、二の間、三の間からなる。 一の間は紫明の間ともいわれる最重要の間で、上下段に分かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜に関する故事が描かれている。 また、三の間は華麗な孔雀が描かれ、「孔雀の間」ともいわれている。

経蔵 【重文】



 経蔵に納められている『大蔵経(一切経)』は天海僧正の開版されたもので、寛永十二年(1635)江戸の寛永寺で発起し、12ヵ年をかけて完成した。天海版または寛永版とも称される。 幕府の要請と本願寺第13代良如宗主の希望により慶安元年(1648)九月に銀27貫目で購入した。

太鼓堂 【重文】

太鼓堂

新開道路碑

 太鼓楼は、旧来より時を報せたり、法要の合図として打たれていた太鼓を備える重層の楼閣建築である。 宝暦十年(1760)の親鸞聖人500回忌に際して境内の大規模な整備が行われており、現在の太鼓楼はこの頃に建立されたものと考えらている。 なお寛政元年(1879)に第17代法如上人の時に修復が行われ、この修復の時に新たな太鼓がそなえられることとなり、現在は二つの太鼓が残されている。
 西本願寺内で新選組の宿舎として使われていたのは北集会所と太鼓楼のあたり。 北集会所は明治六年(1873)に姫路市の本徳寺に移築されたので、今の本願寺で新選組の足跡を見れるのはこの太鼓楼のみとなっている。

あとがき

 書院、飛雲閣の拝観(午前10:30と午後14:30)は前日までの事前予約だったり、春と秋の法要時でないと気軽に出来ないので観れていない。毎年京都に行っているので機会があれば観てみたいものだ。

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