比叡山延暦寺は伝教大師最澄が開いた天台宗総本山である。延暦寺は単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔、西塔、横川などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。
延暦寺は延暦七年(788)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まり。
開創時の年号をとった"延暦寺"という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁十四年(823)である。
ケーブル坂本駅 |
ケーブルカー |
比叡山に上るには京都からの叡山ケーブルか大津市坂本からの坂本ケーブルが便利だ。今回は坂本ケーブルを利用した。麓の標高200m弱の坂本の町から約11分、時速11kmで標高約680mの「ケーブル延暦寺」駅まで登る。 坂本ケーブルは日本で一番長いケーブルカーとして有名だ。また、眺望も日本一と人気がある。 最寄り駅である坂本ケーブル「ケーブル延暦寺」駅より東塔地区に続く一本道を歩いて約10分(600mほど)で東塔バス停に着く。 根本中堂にはここからさらに東へ400mほど先だ。
【東塔地区堂塔】 | |||
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根本中堂 | 文殊楼 | 大黒堂 | 大講堂 |
戒壇院 | 正覚院不動 | 法華総持院 | 弁慶水 |
山王院 | 浄土院 | ||
【西塔地区堂塔】 | |||
箕淵(みのふち)弁財天 | にない堂(常行堂・法華堂) | 恵亮堂・円戒国師寿塔 | 西塔政所 |
釈迦堂(転法輪堂) | 西塔鐘楼 |
寺名: 比叡山 延暦寺
宗派: 天台宗総本山
本尊: 薬師如来
創建: 延暦七年(788)
開基: 最澄
住所: 滋賀県大津市坂本本町4220
アクセス: JR京都駅より湖西線比叡山坂本駅下車、更にバス・ケーブルカーを乗り継ぎ約90分。
【履歴】
・11/10(土): 10/29(月)参拝。
根本中堂(改装中!!) |
薬師如来像と常灯明 |
延暦四年(785)七月、最澄は山林静寂の地を求めて叡山に登り草庵に居住した。
この草庵は「根本一乗止観院」と称され、薬師像を安置したという。
これが後の根本中堂となる建造物の原型で、薬師堂・文殊堂・経蔵の3宇によって構成されていた。
最澄の常灯明は元亀の織田信長の比叡山焼打ちに際し根本中堂ともども失われた。
のちに比叡山が再興され、天正十三年(1585)に根本中堂が再建されるあたり、最澄の常灯明も復興されることとなった。
その42年前に山形県の立石寺が根本中堂の常灯明を受けたことにより、立石寺の常灯明の灯明は根本中堂に移され、天正十七年(1589)10月25日、立石寺に常灯明を移した立石寺の住僧一相坊円海が今度は根本中堂に灯明を運び、復興された。
根本中堂の規模は桁行11間(37.57m)、梁間6間(23.63m)、棟24.46mとなっている。
現在、根本中堂は平成二十八年(2016)から10年間かけての大改修中で、作業用足場が組まれすっぽりと覆いで覆われている。
しかしながら、内部の拝観・一部屋根の見学はできる。
朝の勤行が行われる本堂の内陣と参加者が座る場所は繋がっておらず、参加者は舞台のような少し高い場所から堂内を見下ろす感じになる。
これは祀られている仏さまと正対するようにするためという。
文殊楼 |
文殊坐像 |
文殊楼は根本中堂の正面東側の虚空蔵尾にある堂で、「一行三昧院」とも称されている。
円仁によって建立され、貞観六年(864)に完成した。
その後何度も焼失している。現在の建物は寛文八年(1668)のもので、大津市の指定文化財となっている。
寛文八年(1668)2月27日に東塔北谷僧房の善学院より出火して、前唐院とともに焼失するが(『天台座主記』巻6、181世入道無品尭恕親王、寛文八年2月27日条)、同年中に再建工事を行った(『天台座主記』巻6、181世入道無品尭恕親王、寛文八年条)。
この時再建されたものが現在の文殊楼であり、桁行3間(9m45cm)、梁間2間(6m8cm)の入母屋造の三間一戸二階二重門である。二階は床を張って文殊菩薩を安置する。
初重には扉を設けず、両脇を板壁で区切って室としている。
和様を基調としながらも、柱の粽・台輪や花頭窓などに禅宗様を加味する。
文殊楼正面に安置される文殊坐像1体は高さが4尺8寸(145cm)、化現文殊乗師子立像1体が8尺(240cm)、脇侍の文殊立像4体は高さがそれぞれ5尺3寸(160cm)、侍者化現文殊童子立像1体が5尺3寸(160cm)、師子御者化現文殊大士立像1体が高5尺3寸(160cm)である。
大黒堂 |
三面六臂大黒天 |
大黒堂は文殊楼の南側にある一隅会館前の広場に面して建っている。最澄が比叡山に登った折りに、大黒天を感見したところと言われている。
本尊は「三面出世大黒天」と言われ、大黒天と毘沙門と弁財天が一体になった姿をしている。大黒天信仰の発祥の地である。
豊臣秀吉がこの三面大黒天に出世を願い遂に"豊太閣"となったことから「三面出世大黒天」と尊称され、 福徳延寿をお授けになる大黒天として、 自他安楽の道を願う人々の信仰を受け続けている。
正しくは三面六臂大黒天と言い、日本で最初の三面をもった尊天である。
米俵の上に立ち、食生活を守る「大黒天」を中心に、右には勇気と力を与える「毘沙門天」、左には美と才能を与える「弁財天」、六本のお手には衆生福徳を叶え苦難を除く様々な道具を持つ。
まず、正面の大黒天の左手には願いを叶える如意宝珠を持ち、右手には煩悩を断ち切る智慧の利剣を持つ。
次に右面の弁財天の左手には福を集める鎌を持ち、右手には世福を収納し、人々の願いに応じて福を与える宝鍵を持つ。
次に左面の毘沙門天の左手には七財を自在に施こす如意棒を持ち、右手には魔を降だす鎗(槍)を持つ。
すなわち、福徳開運の善神であり、商売繁盛の守り神として現在では宗派の別なく祀つられている。
大講堂 |
本尊:大日如来坐像 |
大講堂は根本中堂の西側にある。
大講堂は単に「講堂」とよばれることもあるが、横川の四季講堂などと区別するため「大講堂」と称されている。
戒壇院よりも高い場所に位置しており、多くの法会の舞台として使われてきたが、幾度も焼失してきた。
大講堂は平安時代初期、淳和天皇の天長年間(824〜34)に建造されたのが最初である。
現在の建物は昭和三十八年(1963)に讃仏堂を移築したもので、寛永十一年(1634)の建立である。
この建物は重要文化財に指定され、最初から数えて10代目の建築物となっている。
本尊は大日如来像で、本尊の両脇には日蓮・道元・栄西・円珍・法然・親鸞・良忍・真盛・一遍といった、比叡山から大成して新たに宗派を打ち立てた祖師の像が安置されている。
戒壇院 |
堂内 |
戒壇院は、大講堂から法華総持院へ向かう道の途中にある。
戒壇院とは、最澄構想による大乗戒壇授戒のために建立された建造物で、天長五年(828)に初代天台座主・義真によって創建された。戒壇院は比叡山中で最も重要な堂の一つとされる。
戒壇院設立は比叡山史において最も困難な事業だったと云う。
というのも、その設立においては、これまでの仏教界を差配していた南都仏教の反対に立ち向かわねばならなかったからだ。
これらの一連の事件を「大乗戒壇設立」とか「大乗戒壇独立」と云うが、大乗戒壇設立に尽力したのが最澄の弟子の光定(779〜858)である。
現在の建物は延宝六年(1678)に再建されたもの。
内陣には、釈迦如来、文殊菩薩、弥勒菩薩が安置され、年に一度「授戒会」が行われる。
正覚院不動 |
東塔東谷において「灌頂(かんじょう)」という天台密教における重要な儀式を行う道場だった。
現在はその跡地に延暦寺会館が建てられ、その前に正覚院に祀られていた不動尊を安置し、参拝者、宿泊者の旅行安全・厄難消除の不動尊として信仰されている。
戒壇院からさらに西がわへ50mほど進むと総持院参道の幅広石段が控えており、数十段の石段を登りきるとかなり広い広場の奥に法華総持院の宇堂が建っている。
阿弥陀堂 |
法華総持院東塔 |
東塔-内陣 |
阿弥陀堂は昭和十二年(1937)に行われた比叡山開創千百五十年を記念して建立されたもので、滅罪回向の道場として全国信徒各家の御霊を祀り、日々不退に念仏回向する道場である。
建築様式は大きさ方五間(柱間が五つの正方形)で、鎌倉初期の手法を凝らした純和様式がとられている。
内部の彩色は藤原時代に模してあでやかで、殊に内陣天井廻りは美しい極彩色が施されている。
ご本尊は彫刻界の権威者・内藤光石氏によって彫られた、丈六の阿弥陀仏坐像が祀られている。
最澄は『天台法華宗年分学生式』を天皇に奏上し、布教に出向いた先で『法華経』を写経し、これを納めた宝塔を建立した(六所宝塔)。
その中心の塔が、この「法華総持院東塔」である。現在の塔は昭和五十五年に再建されたもの。
法華総持院から西塔へと向かうと、200mほど先、山王院の手前100mほどのところに無縁塔と並んで弁慶水がある。
弁慶水 |
地蔵 |
弁慶水は、比叡山随一の泉で、「千手井」ともいう。
泉の上に覆屋があり中の様子はよくわからないが、それでも耳を澄ますとこんこんと水の湧き出す音が聞き取れる。
名の由来は、『都名所図会』に「武蔵坊弁慶千手堂に千日参籠す。この水を毎日閼伽とせしよりこの名あり。
平清盛熱病のとき、この水を石船に湛えて沐すといへり」とある。
この泉について『伝説の比叡山』は「最澄と徳一和尚」、「円珍阿闍梨と水天童子」という二つの伝説を紹介しているが、ここでは「最澄と徳一和尚」の話を紹介。
ある日の暑い午後、西坂本から雲母坂にさしかかった二人の僧が日差しを避けて大きな梨の木蔭で休んでいた。
一人は最澄、他の一人は最澄の叡山仏教に日頃真っ向から反対の論陣を張っていた徳一和尚である。
最澄は、たまたま南都で徳一と出合い、徳一のたっての願いで叡山に案内するところであった。
今二人が蔭を借りている梨の木はかなり大きな木であったが、実が一つもないのに気づいた徳一は「草も木も仏になるという山の麓にならぬ梨もこそあれ」と痛烈に皮肉った。
最澄は何ら動ずることなく、梨の木蔭から立ち上がって雲母坂を急いだ。
東塔に近づいた時、徳一はにわかに喉の渇きを覚えた。
最澄は「草も木も仏になるといふ山に何所に水のあると知らずや」といって、手に印を結び念じた。
すると間もなく、路傍の岩陰から玉のような泉が湧き出たのである。
水は千年後の今も尚滾々と湧き出ていて、水晶のように麗しく、氷のように冷たい。
けれども、この泉は初め徳一の揶揄に対する最澄の我慢から念じ出したものであるから、たとえ一滴でも飲んだら、不思議にも心が猛々しくなるという。
山王院は阿弥陀堂から西塔地区へ続く道の途中にあり、他の東塔地区の堂宇とはポツンと離れて位置している。
山王院 |
天台宗第六祖・智証大師円珍の住房で後唐院とも呼ばれた。
千手観音を祀ることから、千手堂、千手院とも呼ばれる。
円珍没後、天台宗は円珍派と慈覚大師円仁派の紛争が起こり、円珍派は、ここから円珍の木像を背負って園城寺(三井寺)に移住したのだという。
武蔵坊弁慶が千日間の参籠をした堂とも伝えられている。
表門 |
拝殿 |
扁額「浄土院」 |
浄土院は、最澄が構想した九院の一つであり、後の十六院構想にも浄土院は含まれていた。
浄土院は『弘仁九年比叡山寺僧院等之記』では、浄土院はまたの名を「法花清浄土院」とされ、弘仁九年(818)9月の段階で別当に薬芬が、知院事に煖然がその地位にいることが知られていることから、弘仁九年(818)以前に造営に着手されていたようだ。
浄土院とは、最澄が義真とともに延暦二十三年(804)に入唐した時、台州臨海県龍興寺の付属施設であり、最澄はここで道邃より受法している。
弘仁十三年(822)6月4日、最澄は中道院にて示寂した(『叡山大師伝』)。遺体は浄土院に運ばれた。この地は最澄を荼毘した地ともいわれる(『浄土院長講会縁起』)。以後、浄土院は最澄の廟所としての地位を有することとなった。
織田信長の比叡山焼打ちで、浄土院も焼失したが、その後に再建されている。
現存する建物は、寛文元年(1661)に再建されたものと推測されている。
伝教大師御廟【重文】 |
比叡山を開いた、天台宗の祖・最澄(伝教大師)は、弘仁十三年(822)6月4日、比叡山の中道院で入寂した。
円仁(慈覚大師)が仁寿四年(854)に唐の五台山竹林寺の風に習って、伝教大師御廟を築いた。
伝教大師の廟所である御廟所は、正面3間(8m)、側面3間(8m)で、屋根は宝形造の銅板葺となっている。
外観は礎盤・台輪・火頭窓が備わった禅宗様建築である。
内部中央は1間(3m45cm)四方の堂内堂となっており、中央四点柱間を桟唐戸で閉ざして周囲に高欄をめぐらしており、外部から堂内に入っても、さらなる密閉空間を形成している。
外陣空間の床は瓦敷となっている。
御廟所の建立年代は、表門・拝殿と同じく寛文元年(1661)頃の建立とみられる。
今回は、東堂地区と西塔地区を巡拝し、横川地区は体力・時間の関係でパスした。法要が行われていれば堂内に上がり参加させていただいたり、国宝館拝観などで思いの外時間が取られてしまったのだ。