新宿区は東京の副都心としての高層ビルが段立する現代の顔と四谷辺りの江戸時代から続く下町風情が遺る顔が混在する街だ。
まずは神楽坂周辺を探索。二回目は新宿駅の西側へ出かけたが成子天神社の改築工事中に遭遇。三回目は新宿駅東側の探索で収穫多し。四回目は四谷・市ヶ谷の神社を探訪した。
新宿区も五回目となると初見の土地になってしまった。そうするとある程度当てずっぽうに道を選んで巡るので予定通りにはいかない。とりあえず大久保駅で降り高田馬場駅まで散策してみた。
NO. | 神社 | 住所 | 参拝年月 | メモ |
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01 | 秋葉神社 | 新宿1-8 | 2013/09/11 | JR新宿駅から探訪 |
02 | 花園神社 | 新宿5-17-13 | 2013/09/11 | JR新宿駅から探訪 |
03 | 西向天神社 | 新宿6-21-1 | 2013/09/11 | JR新宿駅から探訪 |
04 | 稲荷鬼王神社 | 歌舞伎町2-17-5 | 2013/09/11 | JR新宿駅から探訪 |
05 | 熊野神社 | 西新宿2-11-2 | 2013/06/07 | JR新宿駅から探訪 |
06 | 元赤城神社 | 早稲田鶴巻町568 | 2013/01/09 | JR飯田橋駅から探訪 |
07 | 北野神社 | 天神町63 | 2013/01/09 | JR飯田橋駅から探訪 |
08 | 赤城神社 | 赤城元町1-10 | 2013/01/09 | JR飯田橋駅から探訪 |
09 | 筑土八幡神社 | 筑土八幡町2-1 | 2013/01/09 | JR飯田橋駅から探訪 |
10 | 神楽坂若宮八幡神社 | 若宮町18 | 2013/01/09 | JR飯田橋駅から探訪 |
11 | 市谷亀岡八幡宮 | 市谷八幡町15 | 2014/04/18 | 東京メトロ「市ヶ谷」駅から探訪 |
12 | 大京神社 | 大京町6 | 2014/04/18 | 東京メトロ「市ヶ谷」駅から探訪 |
13 | 於岩稲荷田宮神社 | 左門町17 | 2014/04/18 | 東京メトロ「市ヶ谷」駅から探訪 |
14 | 須賀神社 | 須賀町5 | 2014/04/18 | 東京メトロ「市ヶ谷」駅から探訪 |
15 | 鎧神社 | 北新宿3-16-18 | 2014/05/14 | JR中央線「大久保」駅から探訪 |
16 | 鉄砲稲荷神社 | 高田馬場4-29 | 2014/05/14 | JR中央線「大久保」駅から探訪 |
17 | 下落合氷川神社 | 下落合2-7-12 | 2014/05/14 | JR中央線「大久保」駅から探訪 |
18 | 東山藤稲荷神社 | 下落合2-10-5 | 2014/05/14 | JR中央線「大久保」駅から探訪 |
19 | 天祖神社 | 早稲田鶴巻町530 | 2017/04/07 | 東京メトロ「早稲田」駅から探訪 |
20 | 池立神社 | 喜久井町20 | 2017/04/07 | 東京メトロ「早稲田」駅から探訪 |
21 | 穴八幡宮 | 西早稲田2-1-11 | 2017/04/07 | 東京メトロ「早稲田」駅から探訪 |
22 | 水稲荷神社 | 西早稲田3-5-43 | 2017/04/07 | 東京メトロ「早稲田」駅から探訪 |
23 | 西早稲田天祖神社 | 西早稲田3-17-36 | 2017/04/07 | 東京メトロ「早稲田」駅から探訪 |
24 | 成子天神社 | 西新宿8-14-10 | 2017/07/12 | 東京メトロ「西新宿」駅から探訪 |
【履歴】
・2017/07/14(金) 07/12西新宿/成子天神社を参拝。 ・2014/04/18(金) 四谷周辺の神社を巡り参拝
・2017/04/07(金) メトロ東西線「早稲田」駅から探訪。 ・2013/06/07(金) 西新宿周辺の神社を巡り参拝
・2014/05/16(金) 大久保から高田馬場周辺の神社を巡り参拝 ・2013/01/09(水) 飯田橋周辺の神社を巡り参拝
東京メトロ丸の内線「新宿御苑前」駅より徒歩2分。四谷消防署新宿御苑出張所の隣にある。
鳥居 |
社殿 |
神額 |
手水盤 |
秋葉神社は火伏せの神を祀る。
東京メトロ丸の内線・副都心線・都営新宿線「新宿三丁目」駅E2出口より徒歩0分のところに鎮座している。
表参道鳥居 |
社殿 |
神額 |
花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていた。
徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されている。
祭神は倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の3柱。
花園神社は寛永年代(1624〜1644)までは現在の場所より約250m南、今の伊勢丹デパートの付近にあった。
しかし、寛政年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまった。
そこで幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになった。
その場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうだ。
この美しい花園の跡に移転したので「花園稲荷神社」と呼ばれたのが社名の由来とされている。
靖国通り口鳥居 |
裏参道鳥居 |
都営大江戸線「東新宿」駅下車、徒歩5分。
古来より東大久保村の鎮守。安貞二年(1228)栂尾明恵上人の勧請とされる。西向(にしむき)天神とは太宰府の方へ向かい社殿を西向きに造っているために昔から呼び慣らわされた。
都営地下鉄大江戸線「東新宿」駅の南西、徒歩3分。区役所通りに面している。
稲荷鬼王神社は、戸塚諏訪神社境内の福瑳稲荷を承応二年(1653)に勧請したといい、天保三年(1832)に当地の百姓田中清右衛門が熊野から勧請した鬼王権現をと合祀して稲荷鬼王神社となった。境内の恵比寿神社(三島神社)は、新宿山ノ手七福神の恵比寿神である。
JR山手線「新宿」駅下車、西口に出て中央通りをまっすぐに都庁の先の新宿中央公園まで歩く。公園の右手奥に鎮座している。
十二社熊野神社は、室町時代の応永年間(1394-1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現を遷し祠ったものと伝えられている。
(一説に、この地域の開拓にあたった渡辺興兵衛が、天文・永禄年間(1532-69)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祠ったとの言い伝えもある)。
鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官を務める家柄であったが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになった。
九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祠った。
その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祠ったという。
江戸時代には、熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われた。
また、享保年間(1716-1735)には八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れたと云う。
明治維新後は、現在の櫛御気野大神・伊邪奈美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在に至っている。
末社: 大鳥三社 |
胡桃下稲荷神社 |
辨天社 |
手水舎 |
大田南畝の水鉢【新宿区指定有形文化財】 |
東京メトロ有楽町線「江戸川橋」駅下車、出口1bより新目白通りを西へ、「鶴巻町」交差点で交差点を渡り外苑東通りへ左折、三つ目の脇道に右折入ると20m程先の十字路左先にある。
赤城神社の創建時の鎮座地にあり正安二年(1290)創建とされる。その後、寛正元年(1460)に太田持資が牛込台に遷座。里人は跡地に小祠を建て元赤城大明神として崇敬してきた。
明治初年に元赤城神社と改称。昭和二十年5月25日に戦災焼失。昭和二十五年に仮殿再建。
昭和五十二年に東京都の区画整備事業により現在地に換地処分となり境内地は縮小。昭和五十三年に社殿新築竣工している。
石鳥居は大正十五年造。
祭神は岩筒雄命。
東京メトロ東西線「神楽坂」駅下車、出口2「矢来口」より早稲田通りを西へ、「牛込天神町」交差点から北へ200m進むと左手にある。
創建年代は不詳。往古より天神町の天神様として崇敬されてきた。
境内には稲荷社もあり、嘉永年間(1848-54)のころは稲荷社の信仰が高まり古絵図にも稲荷社と記載が残っている。
昭和20年5月の戦災にて社殿焼失。そののちに再建している。
祭神は菅原道真公。
東京メトロ東西線「神楽坂」駅下車、出口1「神楽坂口」すぐ左手にある。
鎌倉時代の正安二年(1300) 上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝わる。 寛正元年(1460)、江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移された。その後、弘治元年(1555)、大胡宮内少輔により現在地に移される。江戸時代には徳川幕府によって江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めた。
『江戸名所図会』では「赤城明神社」として紹介され、大胡重泰(おおごしげやす)より創建されたこと、牛込の鎮守であり別当寺は東覚寺(天台宗)であることなどが記されている。
祭神は岩筒雄命(いわつつおのみこと)。
岩筒雄命は伊邪那岐命の子神である火の神、迦具土神より生まれた神様で、千葉県香取神宮の御祭神、「経津主神」(ふつぬしのかみ)の御親神に当たる。智、仁、勇のすぐれた力をお持ち、殖産興業、厄難消除、学問芸術の神又特に火防の神として高い御神徳を持つ。
螢雪天神(旧北野神社) |
八耳神社,出世稲荷神社,葵神社 |
【螢雪天神(旧北野神社)】
菅原大神を祭神とし、かつては横寺町に鎮座して朝日天満宮と称されていたが、明治九年に境内へと遷されたが戦火にて焼失。
平成十七年(2005)10月旺文社の寄付により螢雪天神として復興した。
【八耳神社】
祭神は八耳大神、合殿に大国主大神、丹生大神、菅原大神を祀る。
昔の太子堂。戦火にて焼失。
【出世稲荷神社】
祭神は保食命。
赤城神社がこの地に遷る以前から牛込の鎮守とされ、保存してきた地主神。
商店街などの商売繁盛と、近隣のサラリーマンのお詣りが多い。
【葵神社】
牛込西五軒町にあった天台宗宝蔵院に鎮座していたが、明治元年神仏混合を廃止された際に境内へ遷された。
東京メトロ有楽町線、南北線「飯田橋」駅下車、出口B1または出口C1より大久保通りを西へ150m程進むと「筑土八幡町」交差点正面にある。
社号碑 |
拝殿 |
境内社- 宮比神社 |
創建年代は不詳。嵯峨天皇の代(約千二百年前)武蔵国豊島郡牛込の里に住んでいた翁がご神託により松の樹を祀ったことにはじまると伝えられる。
その後、伝教大師が筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎とし神像を彫刻して祠に祀ったことから筑土八幡と名付けられたと云う。
応神天皇を主祭神、神功皇后、仲哀天皇を副祭神としている。
境内社宮比神社は祭神は宮比神で大宮売命、天細女命ともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。
東京メトロ有楽町線、南北線「飯田橋」駅下車、出口B3より外堀通りを南へ。東京理科大学先の二つ目脇道を150m程上ると右手にある(徒歩5分)。
鎌倉時代の文治五年秋、右大将源頼朝公が奥州の藤原泰衡を征伐するため発向した際、当所にて下馬宿願し奥州平治の後、宮鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を分社したのが始まり。
仁徳天皇、応神天皇を祀っている。
東京メトロ南北線「市ヶ谷」駅下車。出口7から出てすぐ外堀通りを横断し、四谷方向へ進むと外堀通りとの分岐点の手前右手にある。
参道階段と鳥居 |
拝殿 |
手水舎 |
市谷亀ヶ岡八幡神社は、太田道灌が文明十一年(1479)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を江戸城西方の守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して「亀岡八幡宮」と称した。
江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座した。明治五年には郷社に列格している。
祭神として誉田別命、気長足姫尊、輿登比売神を祀る。
茶ノ木稲荷神社 |
金刀比羅宮 |
出世稲荷神社 |
茶ノ木稲荷神社: 一千年余りの昔、弘法大師が鎭祭し、そしてこの地は稲荷山とよばれた。
金刀比羅宮: 讃岐の金比羅さんで有名な金刀比羅宮の御分霊を祠った神社。
東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目」駅下車。1番出口から地上に出て新宿方向に歩き、最初の右手脇道「右馬殿横丁」に入る。 5つ目の右手脇道に折れると20mほど先右手にある。
大久保右京亮教隆・教勝の邸内社として寛永・正保年間(1624-1628)に秋葉神社として創建された。
昭和十一年に町名に合わせ「右京神社」と改称、更に昭和十八年右京町と大番町とが合併して大京町となったので昭和四十二年に「大京神社」に改称した。
祭神として火之迦具土神を祀る。
東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目」駅下車。 3番出口から地上に出て新宿方向に歩き、「四谷三丁目」交差点で外苑東通りに左折し、四谷警察署の先で鬼横丁に左折。 突き当りで右折し進むと50mほど先にある。
四谷於岩稲荷田宮神社は、江戸幕府の御家人田宮家の屋敷社だったが、田宮於岩にあやかり於岩を合祀したことで「於岩稲荷」と称されるようになった。 明治五年頃「田宮稲荷」と改称し、火災で一時移転(中央区新川の於岩稲荷田宮神社)したが、昭和二十七年に再びここに戻った。
東京メトロ丸ノ内線「四ツ谷」駅下車。新宿通りを新宿方向に進み「四谷二丁目」横断歩道で天王横丁(SHOP99の角)へ入る。 しばらく進み突き当りの階段を上り右手路地に折れると30mほど先左手にある。
二の鳥居 |
拝殿 |
神額「須賀大神 稲荷大神」 |
須賀神社は、稲荷神社と牛頭天王社を併せて、江戸時代には稲荷天王合社と呼ばれていた。
稲荷神社については、赤坂一ツ木に鎮座していた稲荷神社が、別当寺宝蔵院とともに寛永十一年(1634)当地へ遷座したものだ。
また牛頭天王社は、当地を所領した馬込勘由が、旧所領日本橋大伝馬町の守護神牛頭天王社(神田神社内)を、守護神として寛永二十年四谷の氏神様として勧請した。
明治元年に須賀神社と改称、明治五年には郷社に列格した。
祭神として建速須佐之男命・宇迦能御魂大神を祀る。
天白稲荷神社 |
祖霊社 |
大黒天 |
JR中央線「大久保」駅下車、北口出口より大久保通を西方向へ少し行ったところにある「北新宿1丁目」交差点で小滝橋通りへ右折する。 北上しJR中央線線路手前で左手路地に入り、丁字路突き当りまで進む。 突き当たった少し広い道を左折するとすぐ右手にある。(徒歩11分)
醍醐天皇の時代(898〜929)、理源大師の徒弟である筑波の貞崇僧都行基作と伝えられる薬師如来像がこの地に祀られ、円照寺が創建された。
その際、寺の鬼門鎮護のため当社が創建されたと伝えられている。
日本武命、大己貴命、少彦名命、平将門公を祀る。
裏参道口 |
摂社: 天神社 |
手水舎 |
末社祠 |
摂社 天神社: 学問の神様「菅原道真」を祀る。もともとは柏木北公園に鎮座していたが、明治中頃に遷座された。
成子天神の元の社であることから元天神とも言われる。
末社: 稲荷神社、三峯神社、子の権現を合祀している。
JR山手線「高田馬場」駅で下車。早稲田口前の都道25号線「早稲田通り」を西へ約500m進み、バス停の先40mにある左手路地に入り南へ80mほど進むと右手にある。(徒歩約10分)
社号標と鳥居 |
社殿 |
神額「稲荷神社」 |
江戸幕府開府以来当地に鎮座すると云う。
JR山手線「高田馬場」駅で下車。早稲田口から「さかえ通り」商店街へ入る。 商店街を抜けると右手には神田川が流れその先にある橋を渡り道なりに進むと北上して都道8号線「新目黒通り」へ出る。 横断歩道で道路を渡り、左側50mほど先の路地に入ると突き当り左手に氷川神社がある。(徒歩約7分)
表参道の鳥居 |
拝殿 |
神額「氷川神社」 |
創立は第五代孝昭天皇の御代(今より二千四百年前)とも、さらに上古ともいわれている。
「江戸名所図会」、「江戸紀聞」、「江戸砂子」等によれば、非常に広い境内を有し、その一角から湧き出る泉からは神様の姿をした砂が噴き出たと伝えられている。
素盞嗚命、奇稲田姫命、大己貴命の三柱を祀る。
JR山手線「高田馬場」駅で下車。早稲田口からさかえ通りの途中で右手路地へ右折、北上して都道8号線「新目黒通り」へ出る。横断歩道で道路を渡り、左側50mほど先の路地に入る。 右手に「おとめ山公園」がある「おとめ山通り」を少し上ると左手に「東山藤稲荷神社」の社標が建っている。さらに少し登ると左手に路地があり、道の正面突き当りに神社の鳥居が見える。(徒歩約7分)
旧社跡−社号標 |
二の鳥居 |
社殿 |
東山稲荷・藤森稲荷とも呼ばれる。 社伝によれば、清和源氏の祖六孫王源経基が京都の稲荷神を勧請して、東国の源氏の氏神として祀ったという伝承がある。 もとは現在地の坂下(下落合2-10-7付近、記念碑が建っている)にあったが、第二次大戦で焼失し、昭和28年現在地へ移転した。 また、藤の大木があったため社名の由来となった。
東京メトロ東西線「早稲田」駅下車、3a口に出て道路を横断し北東方向に奔る道を早大通りへ向かい、早稲田キャンバス研究院の手前の脇道に折れる。 100m先で左に折れると次の四つ角右手手前に鎮座している。
具体的な創建時期は、不明であるが、天和2年(1682年)に、今の榎町から現在の地に遷座されたものとなる。
当時は、あたり一面がミョウガ畑であったことから、茗荷畑の神明宮と呼ばれ、住民から崇敬をあつめていた。
江戸時代には、神明宮、明神神社と称していたが、明治時代になり、天祖神社と改められ、無各社として、赤城神社の附属社となった。昭和27年(1952年)宗教邦人法により、宗教法人「天祖神社」となった。
昭和四十一年(一九六六年)本殿の再建を見たる。
祭神は天照皇大神。
東京メトロ東西線「早稲田」駅下車、早稲田通りから夏目坂を登り南へ。「喜久井町」信号交差点のすぐ北側(左手)の一辻入った住宅地に鎮座。
池立神社は、三河藩松平家の邸内鎮守として創建、明治維新後、喜久井町に譲渡されたと云う。
東京メトロ東西線「早稲田」駅で下車、早稲田通りを新宿方向へ進むと次の「馬場下町」交差点の左向いに鎮座している。
鳥居の先には境内へ続く参道の石段があり、左手には上掲した流鏑馬の像が置かれている。 小高い丘に鎮座しているのだが、前方後円墳の上に鎮座しているとも云われている。 石段の先に立派な朱色の随神門(光寮門)があり、門をくぐると境内が広がっている。
一の鳥居 |
拝殿 |
神額「穴八幡宮」 |
創建は康平五年(1062)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧進し、永く東北鎮護の社として祀られた。
寛永十八年(1641)八幡神を祠る別当寺を建てるために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、そこに金銅の阿弥陀像が発見された。
以来、「穴八幡宮」と呼ばれるようになり、商売繁盛や金運UP、出世、開運、蟲封じなどにご利益があるとされている。
祭神は應神天皇・仲哀天皇・神功皇后。
昭和二十年(1945)の東京大空襲で、建物の多くを焼失。
昭和三十六年(1961)御鎮座900年事業として本殿を再建、平成元年(1989)には引き続き慶安・元禄の江戸権現造りの設計絵図に基づき幣殿、拝殿が造営された。
隨神門 |
隨神門扁額「光寮門」 |
隨神門は平成10年(1998)8月に室町時代の様式で再建された。
鼓楼 |
神武天皇遥拝所 |
鼓楼は平成二十七年(2015)に江戸時代と同じ位置に再建された。
境内の左手には神武天皇遥拝所が置かれている。南西の方向に位置する奈良県「橿原神宮」の方向を向いており遥拝できる場所となっている。
ここに置かれる狛犬は、頭に宝珠を乗せており、宝暦五年(1755)に造られた古いものだ。
東西線 「早稲田」駅から徒歩10分。 早稲田通りを早稲田から高田馬場方面に少し歩き、途中で右折し坂を下って行くと横断歩道の左側に神社の入り口がある。
創建は平安時代の初期。現在早稲田大学のある地に「富士塚」があり、その地に建てられた。
当初は富塚稲荷、将軍稲荷と呼ばれていた。
その後江戸時代になり、ご神木の椋(むく)の木の根元より霊水が湧き出し、それが眼病に効くと評判になり、火難退散の神託が下ったことから「水稲荷神社」に改名された。
昭和三十八年に、早稲田大学と土地の交換を行い、現在の場所に移った。
眼病や水商売、消防の神様として有名であり、古くから信仰が厚い神社である。
祭神は、倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さだひこのおおかみ)、大宮姫大神(おおみやひめのおおかみ)である。
琴平神社、高木神社、三島神社 |
稲荷社 |
富塚古墳 |
合祀されている神社として琴平神社、高木神社、三島神社、水神社がある。
「富塚古墳」は元々は早稲田大学構内にあったが、神社の遷移に伴い移築されたもの。
都電荒川線「面影橋」駅で下車し、新目白通りを横断し、南へ奔る脇道に入り歩いていると、右手の少し開けた場所に鳥居が見える。
参道口 |
社殿 |
神額「天祖神社」 |
創建は江戸時代の初期。豊臣秀吉の家臣だった小泉源兵衛と言う人物が、大阪夏の陣で敗れた後に江戸に逃れ、当時は荒地だったこの地を開墾し、創建したと伝えられている。
当初より「神明宮」/「神明神社」と呼ばれていたが、明治三年に「天祖神社」に改称された。
明治二十七年には、境内にあった諏訪神社、須賀神社、稲荷神社、厳島神社の四祭神を合祀して、現在に至っている。
祭神は、皇室の祖神で、日本国民の総氏神である天照皇大神(あまてらすおおみのかみ)である。
東京メトロ・丸の内線「西新宿」駅1番出口より出て、目の前の青梅街道を西へ80mほど行くと右手に参道がある。
一の鳥居(表参道) |
楼門 |
平安時代の延喜三年(903)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなった報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰る。 そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神として祀りし当社が設立された。
社殿 |
神額「天満宮」 |
神牛像(撫牛) |
古くは、徳川三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。 明治二十七年「成子神社」と改め、昭和三年「成子天神社」と改称した。 その後戦災焼失、昭和四十一年の再建されたが、周辺の街角開発に伴い平成二十六年に全て新しく造営された。
境内社 |
三角鳥居と水神宮 |
鳥居奥中央に鎮座する大神宮は元々当地にあった産土神だ。左手は大鳥神社、右手は鳴子稲荷神社で、さらに右手に水神宮がある。 水人宮の手前には三角鳥居に守られた手押しポンプの井戸がある。今でも水が出るそうだ。
富士塚 |
力石【新宿区指定有形民俗文化財】 |
"成子天神社の富士塚"は大正九年(1920)に築造された比較的新しいもので、標高約12mの塚の頂上まで遊歩道を利用して登ることができる。
この富士塚はもともと境内にあった天神山と呼ばれていた丘を改造して造られたもので、新宿区内最大規模かつ最後に造られた富士塚であり、再整備された際も残されている。
"力石": 社殿の前に置かれている七個の石が力石だ。
昭和初期まで、毎年9月25日の大祭で村の若者たちの力くらべに使われたもので、卵形の自然石に四十貫(約218kg)という重量と、喜太郎・虎松など持上げた人の名が刻まれている。
七福神: 表参道には七福神のうち恵比寿神、大黒天、毘沙門天が置かれている。
そして、境内に入ると左手に弁財天、正面の社殿左手に福禄寿、北参道に寿老人、布袋和尚が置かれ、一社で七福神巡りが出来る。