事事関心!
[ 神社探訪: 横浜市金沢区 ]
神社探訪: 横浜市金沢区 2014/01/08(水) 新規
神社一覧

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 谷津浅間神社 横浜市金沢区谷津町432 2014/01/05 
 02 手子神社 横浜市金沢区釜利谷南1-1-8 2014/01/05 
 03 金沢八幡神社 横浜市金沢区寺前1-10 2014/01/05
 04 町屋神社 横浜市金沢区町屋町4ー20 2014/01/05
 05 洲崎神社 横浜市金沢区洲崎町9ー28 2014/01/05
 06 瀬戸神社 横浜市金沢区瀬戸18ー14 2014/01/05
 07 富岡神社 横浜市金沢区富岡東4ー5ー41 2014/01/05 

・2014/01/08(水): 01/05(日)金沢七福神巡りのついでに参拝


谷津浅間神社 横浜市金沢区谷津町432

 京浜急行「金沢文庫」駅で下車し、西口から線路沿いの道を北上し、150mほど先の左側脇道に折れる。 更に道なりに100mほど進むと丁字路にぶつかるが、目の前山裾に谷津浅間神社の鳥居が建っている。




 口伝によれば、寛仁年間(1017-21)に時の摂政藤原道長が能見堂に来遊した折り、東方にお椀を伏せたような山があったので「塗桶山」と名付け、富士浅間大菩薩を勧請したという。
 祭神は木花咲耶姫で、安産の守護神として崇められている。


手子神社(てこじんじゃ) 横浜市金沢区釜利谷南1-1-8

 京浜急行「金沢文庫」駅で下車し、西口から笹下釜利谷道路を西へ向かい、途中で左手の宮川沿いの道に移り、川沿いに川上に向かうと左手の山裾に鎮座している。(徒歩約10分)


鳥居

拝殿

境内社/竹生嶋弁財天社

 手子神社は大山祇神を祭神とする神社で、文明五年(1473)に釜利谷領主伊丹左京亮(北條氏康の家臣)が瀬戸神社を分霊して宮ヶ谷に祀ったのが創始と伝えている。 手子明神(てこみょうじん)とも呼ばれていた。
 延宝七年(1679)に伊丹氏の子孫である三河守昌家の子、江戸浅草寺の智楽院忠蓮僧正が現在の小泉の地に遷祀して以来、釜利谷の総鎮守として崇拝されてきた。
 また、拝殿左手の崖際に境内社/竹生嶋弁財天社が祀られている。金沢八景「小泉夜雨」で描かれた小泉の瀟湘(しょうしょう)の松の下の祠であったが、享保八年(1722)に江戸の木島又右衛門政尚と玄峰和尚とで同所に石窟を穿って遷宮した。 その後、昭和十五年(1940)に現在の手子神社に遷座した。


金沢八幡神社 横浜市金沢区寺前1-10

 京浜急行「金沢文庫」駅で下車し、東口から駅前の国道16号線(横須賀街道)を南へ向かう。次の「君ケ崎」交叉点で左手斜めに走る"歴史の道"に折れ、約300mほど進むと左手に鎮座している。




 寺前八幡神社と呼び親しまれて、江戸時代までは、八幡報恩寺(はちまんほうおんじ)という別当寺も神社の北側にあったが、廃寺となり神社の記録も残っていない。 金沢文庫の古文書に700年前の称名寺造営の運ぶ舟が八幡河岸(がし)に陸揚げした、とあることから、鎌倉時代には存在していたようだ。
 主祭神として日本武命を祀り、合わせて明治四十一年に近くの小社が合祀したことにより外三社の祭神である応神天皇、大日霊貴命、建御名方刀美命も祀っている。


町屋神社 横浜市金沢区町屋町4ー20

 金沢八幡神社から更に"歴史の道"を南へ向かうと、150m先の四つ角「町屋」交叉点で右折すると正面左手50m先に鎮座している。




 町屋町の総鎮守で、祭神は須佐之雄命である。
 言い伝えに寄れば、元和元年(1615) 大坂城落城の際に豊臣側の家臣がこの地に移り住み、牛頭天王を祭ったのが起源とされている。 文化六年(1809)4月以来、町屋と洲崎の両村が協議し天王社を二社に分け祀ってきたが、明治二年(1868)の神仏分離令を機会に天王社を"町屋神社"に改名し町屋の総鎮守として親しまれている。


洲崎神社 横浜市金沢区洲崎町9ー28

 町屋神社から更に"歴史の道"を南へ向かうと、250m先「洲崎町北側」交差点の左手先に鎮座している。




 元は長浜の地にあったが、応長元年(1311)5月18日の大海嘯で一村流滅し、住民の一部が鎮守"大六天社"を奉じてこの地に移住したのをはじめとしている。
 現在の本殿は天保九年6月12日の再建で、明治維新の際に"洲崎神社"と改称した。 明治三十六年12月1日横浜金沢間の国道改修に伴い翌年2月9日に現在地に遷座した。
 明治四十二年には拝殿を増築、翌四十三年泥亀村の日枝神社及稲荷社を合祀、更に大正三年泥亀新田姫小島の無格社十二天社を合祀した。 昭和十六年には、幣殿、拝殿、神饌舎を再度改築し現在に至っている。


瀬戸神社 横浜市金沢区瀬戸18ー14

 京急本線「金沢八景」駅で下車、海側へ向かうと国道16号線にぶつかるが、ここを左折すると100m先に鎮座している。




 大昔から、平潟湾のこの地に海神が祀られていたが、治承四年(1180)鎌倉に入った源頼朝が、日頃崇敬する"伊豆三島明神"を、この霊域に遷祀してからは、「瀬戸三島大明神」と呼ばれ、延慶初年には正一位の神階を受けた。 執権北條貞顕、関東管領足利持氏、成氏父子、小田原北條氏等歴代の武門名将の崇敬も篤く、特に足利成氏は何回も参拝し、社頭の弁天島境内での直会の有様も記録に残っている。
 徳川家康も慶長五年(1600)参拝して百石の社領を寄進し、元禄以後は領主米倉丹後守をはじめ、金沢八景の中心として江戸庶民の間にまで多くの信仰者がひろがった。
 明治六年(1873) 郷社に列格、戦後は宗教法人となり、昭和四十三年、神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定された。 現在の社殿は寛政十二年(1800)の建造で、屋根は昭和四年に葺替えになった。
 主神として大山祇命を祀る。大山祇命は伊予国大三島の大山祇神社・伊豆国三島大社の御祭神と同躰で、交通安全・旅行安全・商売繁盛の守護神として知られている。
 配祀神として須佐之男命(天王さま)・菅原道真公(天神さま)を祀り、更に伊邪那岐命・伊邪那美命・速玉男命・倉稲魂命・天照皇大神・猿田彦命・味耕高彦根命・建御名方命・木花咲耶姫命・菊理姫命・徳川家康公を合祀している。




琵琶島神社(弁天社):
 源頼朝の夫人、北條政子が近江の竹生島明神を勧請したもので、古来"琵琶島弁財天"と呼ばれている。 また立姿の御神像(室町時代の製作)に因んで"立身弁財天"として信仰をあつめた。足利成氏参拝記録には"船寄弁才天"と記されている。 境内の枯木は柏槙の名木で、延宝年間の暴風に冠水して立ち枯れたまま腐蝕せず、三百年前の風致をそのまま今に伝えている。


富岡八幡宮 横浜市金沢区富岡東4ー5ー41

 京浜急行「京急富岡」駅下車、東へ歩き国道16号線に出て左折する。つぎの「金沢総合高校入口」交叉点で右折して下っていく。バスターミナルのところで左手脇道に折れ、直進していくと右手に鎮座している。(徒歩8分)


鳥居と境内への参道

初詣でにぎわう社殿

 富岡八幡宮はおよそ八百年前、建久二年(1191)に源頼朝公が当郷鎮護の為摂津の西宮の恵比寿様を祀ったのが始め。 後、安貞元年(1227)には八幡大神を併せ祀り、社名も八幡宮と改めた。
 鎌倉からは、ちょうど鬼門の方角に当たる海に面した小山に祀られ、社も鬼門を向いており、鎌倉幕府の厄災防除の神としても祀られた神社である。
 また、八幡宮の山が"応長の大津波(1311)"から部落を守った事から『波除八幡(なみよけはちまん)』とも称ばれ、広く江戸方面からも信仰を集め、深川富岡八幡宮へ御分霊された事は有名である。
 社殿の造営は、天正、慶長、寛永などの棟札に、鶴岡八幡宮造営に併せ、又破損の度、時の地頭が行った事が記されている。 寛永1年〜寛永3年の鶴岡八幡宮の造営に際し漆塗りの本殿の扉を拝戴し、当宮本殿内陣の扉として移設されている。
 現在の本殿は天正十四年(桃山時代)の建築で、平成十四年の造営により覆殿を復興し、柿葺(こけらぶき)の屋根、丹塗(にぬり)の社殿など、桃山時代の姿に蘇がえらせている。
 祭神として八幡大神、蛭子尊、天照皇大神を祀っている。

inserted by FC2 system