事事関心! 神社探訪:
[ 横浜市南区 ]
神社探訪: 横浜市南区             2019/06/14(金)更新
コース案内

 横浜市南区にある神社を数度に分けて参拝した。

NO.神社名住所拝観期日備考
 01 金刀比羅大鷲神社 横浜市南区真金町1-3 2013/03/04 市営地下鉄「阪東橋」駅徒歩7分
 02 熊野神社 横浜市南区中里3-5 2012/12/19 市営地下鉄「弘明寺」駅徒歩10分
 03 蒔田杉山神社 横浜市南区宮元町3ー48 2012/07/05 市営地下鉄「蒔田」駅徒歩2分
 04 子之神社 横浜市南区堀ノ内町2ー134 2012/07/05 市営地下鉄「蒔田」駅徒歩7分
 05 堀之内稲荷神社 横浜市南区堀ノ内町2ー211 2012/07/05 市営地下鉄「蒔田」駅徒歩7分
 06 西森稲荷神社 横浜市南区蒔田町105 2012/07/05 市営地下鉄「蒔田」駅徒歩4分
 07 中村八幡宮 横浜市南区八幡町1 2014/01/29 市営地下鉄「阪東橋」駅徒歩10分
 08 お三の宮日枝神社 横浜市南区山王町5-32 2014/02/01 市営地下鉄「吉野町」駅徒歩3分
 09 太田杉山神社 横浜市南区南太田2-7-29 2019/06/14 京急「南太田」駅徒歩5分

・2012/07/06(金): 蒔田の神社を参拝し掲載
・2012/12/22(土): 弘明寺の神社を参拝し掲載
・2013/03/04(月): 真金町の神社を参拝し掲載
・2014/01/29(水): 中村八幡宮を参拝し掲載
・2014/02/01(水): お三の宮日枝神社を参拝し掲載
・2019/06/14(金): 太田杉山神社を参拝し掲載

金刀比羅大鷲神社 横浜市南区真金町1-3

 市営地下鉄「阪東橋」駅下車、出口1Aから関内方向に歩き、「横浜橋」交差点で右折し横浜橋通商店街に入り中ほどまで進む。真金町交番手前の左手の路地に折れ、路地が突き当る裏道に面して右手に鎮座している(徒歩7分)。


鳥居

拝殿

伏見稲荷社

 金刀比羅神社は横浜開港(1859年)にあたり、港崎遊郭の岩亀楼主人である岩槻屋佐吉が讃岐国象頭山金比羅大権現を勧請し、港崎町(現在の横浜公園の地)に祭祀したことに始まる。 その後、1872年に遊廓の移転とともに高島町7丁目の海側へ遷座、更に1882年4月に今の真金町へ遷座した。 関東大震災(1923年9月1日)と横浜大空襲(1945年5月29日)とで被災した。その度に再建されたが、現在の社殿は1988年8月に更に再建されたものである。 祭神は大物主乃命(おおものぬしのみこと)、崇徳天皇(すとくてんのう)。
 大鷲神社は、1872年港崎遊廓が高島町に移転した際、東京の吉原に倣い「おとり様」を勧請した。 この時から浅草と同様に酉の市が行われるようになった。当初は境内の末社であり別宮となっていたが、現在は金刀比羅神社の相殿に祀られている。 祭神は天之鳥船命(あまのとりふねのみこと)である。


手水舎

「すし塚」碑

「遊廓」石柱

 神社正面右手玉垣の角に「永真遊郭」があったころに寄進された「遊廓」と刻まれた石柱が建っている。 ここは落語家の桂歌丸氏が生まれ育った地で、生まれた家が「富士楼」という一軒の置屋で、富士楼を経営する祖母に郭の中で育てられたとのことだ。

熊野神社 横浜市南区中里3-5

 市営地下鉄「弘明寺」駅下車、弘明寺商店街アーケードを過ぎてすぐ左の道へ折れ先へ進む。最初の分かれ道で右折し京急の線路下を潜り道なりに約2分の所にある。
 境内が狭く、社殿の全景撮影は困難。また、境内は日常の清掃がなされておらずゴミが方々に散在している。


社号標石

鳥居

拝殿

神額

 「新編武蔵風土記稿」に「除地、一段、小名瀧前にて相州によりし方の山頂にあり。村の鎮守なり。 社体は三尺五寸に七尺、上屋二間半に三間なり。西光寺の持」との記載がある。

蒔田杉山神社 横浜市南区宮元町3ー48

 市営地下鉄「蒔田」駅下車すぐの所にある。境内入口に狛犬が配置され、境内は幼稚園の園庭として利用されているので、幼稚園が開園している平日は参拝出来ない。


社号標石

拝殿

 承元三年(1209)源頼朝の三男貞暁法印(俗に鎌倉法印という)が、鎌倉幕府の鬼門鎮護のため伊豆国土肥の杉山から勧請し市杵島姫命を鎮座・創建した。創建往時の当地は山の根が海中に突出したその洲先にあたり、風光麗しき海浜だったと云う。 明治四十二年、無格社大神宮社、稲荷神社を合祀祭神二柱を加えた。
 現社殿は昭和三十二年に造営し、更に昭和五十二年荘厳化工事が完成した。昭和六十一年御影石にて玉垣を造営している。

子之神社 横浜市南区堀ノ内町2ー134

 市営地下鉄「蒔田」駅で下車、「宮元町三丁目」交差点で右折し「東蒔田交番」前の交差点まで進む。 ここの交差点で右折、南に約150mのところにある。


鳥居(明神鳥居)

拝殿

神額「子神社」

 日の出町は推古帝の御世(554-628)に、野毛町は白鳳時代(552-645)に、子之神社の子之神の歴史が残されている。 この頃に堀ノ内町にも小規模なものがあったと思われる。そして、族長の霊を山上の古墳に祀り、そこを一族の発展や収穫の祈願など呪祭を行う場とした。人々は水を汲む処を中心に集まり(その人々を井の子という) 、生活し、井の子は井の辺または上に居住した。 一族(家の子)の神が子の神として祀られた。やがて大和朝廷の影響下に入ると祭神も関係ある神々、大国主命等に改められた。


手水舎

御神木(公孫樹)

 例祭日は九月八日、九日で、いつの頃からか宝生寺が明治維新まで別当で、例祭には鎌倉郡舞岡八幡宮宮司が務めた。 明治十六年に村社に列せられ、明治四十二年九月十五日 字清水谷鎮座の稲荷神を合祀した。昭和二十年四月十五日戦災により全焼し、昭和二十九年八月二十四日再建され今日に至っている。
 祭神は大國主命(おおくにぬしのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。


堀之内稲荷神社 横浜市南区堀ノ内町2ー211

 子之神社前の道をさらに南へ約150m進んだ所にある路地の奥にある。社殿右手は幼稚園の園庭に使われ柵で区切られている。


社殿

神額「堀之内稲荷神社」

神狐

 昭和三年に京都伏見稲荷大社より正一位の分霊を戴いた。 昭和二十八年に宗教法人化に伴い名称を堀之内町の町名を取り堀之内稲荷神社とした。
 祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。

西森稲荷神社 横浜市南区蒔田町105

 市営地下鉄「蒔田」駅で下車、湘南台方向に歩きスーパー横濱屋蒔田店の所で左折し、突き当りの道を右折する。 左へ分かれている道に入り最初の左路地の突き当りにある。


鳥居(明神鳥居型)

社殿

 創建年代は不明。西森稲荷神社は古くは蒔田稲荷、大原稲荷として農耕食物の御神徳与える豊受大神を奉斎してきた。 江戸の時代には除地として租税免除の区域とされ、明治の時代に神仏混合分離制度また神社合祀令発布により杉山神社(南区宮元町)に合祀された。 しかし、氏子の人々の夢枕に先の御神託が以下のように告げられた。
『数百年来のこの地を離れることを惜しみ、合祀により廃社すると云えども神霊はなおこの地に静まり給う』
 御神託を受け蒔田町の有志らが旧文部省教会所制度に改めて官許を得、西森稲荷大神を奉斎し、杉山神社神職がこれを兼務する形となった。
 祭神は、豊受大神。
 現在は金刀比羅大鷲神社の兼務社となっている。


三笠山大神

八海山大神

地蔵菩薩

豊川稲荷大神

 多くの神様が祀られている。ここ一ヶ所に参拝すればよいので、まるで神様のデパートのようだ。


猿田彦大神

西森稲荷大神

田之原大黒天

社殿

おもかる石

 「おもかる石」は「神威如嶽 神恩如海」の神言を三度唱え、願い事を念じながら持ち上げた際、軽く感じられたら願い事が叶うと云われているそうだ。

中村八幡宮 横浜市南区八幡町1

 市営地下鉄「阪東橋」駅下車、出口1Aから関内方向に歩き、「横浜橋」交差点で右折し横浜橋通商店街を通り抜ける。 更に直進し200mほど行ったところ左手に鎮座している。




 創立年代は不詳。口碑によれば醍醐天皇の御代、延喜年間(約一千年前)には、既に此の地に奉祀され、八幡大明神と称したと伝へられる。 新編武蔵風土記には「八幡社棟地二畝二十八歩村の中程に建てり鎮守と五丹大明神を相殿とす。是れ五丹大王を祀れるなり。玉泉寺持ち」とあり、明治六年村社に列せられた。
 源頼朝が鎌倉に幕府を樹て、鶴岡八幡宮を勧請せられてより毎年一回、幕府より當宮へも幣帛を捧げられ、又北條氏に至っては、米穀又は田地を寄進されたと伝へられる。
 譽田別尊(ほむだわけのみこと: 第十五代應神天皇)、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、五丹大神(ごたんのおほかみ)を祀る。

お三の宮日枝神社 横浜市南区山王町5-32

 市営地下鉄「吉野町」駅下車、出口4から出て鎌倉街道を蒔田方向に歩き、小学校先の右手脇道に入る。 100mほど進むと左手に通りに面して鎮座している。


鳥居(山王鳥居型)

拝殿

神額「日枝神社」

 寛文十三年九月十日(1673)吉田新田の開拓者だった吉田勘兵衛尉良信が江戸山王権現の分霊を勧請創建したと云われている。 初めは、山王大権現又は山王宮と称されていたが、その後「山王の宮」が転訛して「おさんの宮」又は「お三の宮」と呼ばれるに至ったと云う。 明治八年村社に列し、昭和三年九月十一日神饌幣帛料供進社に指定された。 昭和五十二年六月二十五日宗教法人稲荷神社を合祀した。


山車庫

創建当時の手水鉢

苦難除けの石灯籠


末社: 堰神社

男根石

 堰神社は日枝神社の末社である。 大岡川の水を取りいれるために大堰をつくり、その傍らに町の守り神としてつくられた。
 子宝を願う性神の石碑もある。堰と咳が通ずることから、咳に霊験があると謂れ、平癒したときは赤飯少々と赤旗一本、線香を奉納する習わしがある。


太田杉山神社 横浜市南区南太田2-7-29

 京急「南太田」駅で下車し、南口に出ると平戸桜木道路が奔っているので平戸方向(西側)へ進むと600mほど先「横浜水天宮前」交差点右手に鎮座している。


鳥居(山王鳥居型)

社殿

神額「杉山神社」

神額「水天宮」

 太田杉山神社の創建年代は不詳ながら、都筑郡吉田村(港北区新吉田)杉山神社を勧請したものと考えられ、 鎌倉時代以前の創建のようだ。江戸時代には太田村(南太田・三春台一帯)の鎮守社であったといい、明治二年に「杉山神社」と改称、明治六年に村社に列格、明治四十一年には無格社浅間神社、東神社、稲荷社二社を合祀した。
 昭和二十年五月二十九日戦災の為、社殿社務所を全焼、同時に永和二年の棟札も焼失したが、昭和三十二年八月社殿復興造営竣工、同三十三年十二月神楽殿、社務所を新築竣工した。
 祭神は、日本武尊、天照皇大神、大物主神、崇徳天皇、豊受比売神、菅原道真、大山咋神、木花咲耶姫命、天照皇大神、稲倉魂命、宇気母智命。
 吉田新田が開発の際、度々水害に悩まされたため、貞亨年間に筑後国久留米(現、福岡県久留米市)より現在の横浜長者町あたりに水天宮の御分霊を勧請奉斎し、水害の守護神として尊崇されていた。 平成十年、土地の氏神「旧太田村総鎮守杉山神社」に合祀され、「水天宮」として新たに奉斎される事となった。


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